2018年10月19日金曜日

米騒動と現在




 米騒動をどう解釈し、どう評価するか。
その前に、私たちにはクリアーしなければならない問題がある。

 現代の私たちが時間をさかのぼって歴史を解釈しようとするとき、その解釈の枠組みは現代のイデオロギーを反映し、解釈者が生きている現在の状況に深く関係している。私たち、と言うとき、それはある政治的・思想的観点を自明なものとして共有している「私たち」である。歴史の解釈を可能にするのは、ある事実から何を引き出すかという観点がある程度共有された社会によって、である。
 ところで米騒動は、解釈者がほとんどいない、なかば忘れられた闘争になってしまっている。これは現在の日本社会を考えるうえで、とても興味深い現象だ。
 例えば朝鮮(韓国)の「3・1運動」や、中国の「5・4運動」には、この闘争を振り返り、現代に受け取り、顕彰する人々がある。もちろんそのなかで解釈論争はあるだろう。論争はあるにしても、「3・1」や「5・4」を重大な出来事として受けとめようとする、しっかりとした社会がある。
このことと比較して、米騒動はどうだろう。誰からも腫れ物のようにしか扱われていないのではないだろうか。これは米騒動の解釈の難しさである前に、それを受けとめようとする日本社会のバイアス、変質、喪失があるように思う。なぜ日本の人々は、口々に「米騒動! 米騒動!」と言って盛り上がらないのか。ウキウキしないのか。
私は無理な要求をしているつもりはない。日本民族のすべてを動員して米騒動を顕彰しろとか、政府が記念式典をするべきだとか、国民の休日にしろとか、そういう要求をしたいわけではない。ただ、日本の民主化運動に尽力してきた人々、進歩的知識人、あるいは歴史のある左翼政党が、米騒動を顕彰する盛大なイベントを一日ぐらいやってもいいのではないかと、控えめに思うだけだ。1918年の米騒動は、それだけの重みのある出来事なのだから。


 1918年の米騒動から100年後の現在、日本社会は深い混乱のなかにある。実際、100年前の米騒動を顕彰するどころではない、めちゃくちゃな状態である。
 混乱の原因となったのは、2011年の原子力発電所の爆発である。日本政府は「原子力緊急事態宣言」を発令し、福島「復興」政策を号令した。この政策に従うか拒否するかで、人々は分裂した。「復興」政策に協力し被曝を受忍する者と、「復興」政策も被曝受忍も拒否する者とで、日本社会には深い亀裂が刻まれている。知識人も人権団体も左翼政党も、この分裂と無縁ではなかった。諸政党・諸団体の内部で分裂は進行している。政治主義者は「復興」協力に向かい、科学主義者は「復興」拒否に向かい、両者は議論の接点すら持てない状態へと引き裂かれたのである。
 原発爆発の直後からこの分裂は始まっていたが、中間的な分子によって弥縫策があみだされた。「反原発運動」という名の陳情行動である。2012年の首相官邸前行動に集約される陳情行動は、要求を「原発再稼働反対」に限定し、この最大限綱領を人々に遵守させることで、分裂に蓋をしてしまった。2012年以後の「反原発運動」は、人々の分裂と混乱を統御しようとして、かえって混乱を深めてしまうことになる。

 「反原発」陳情行動という弥縫策には目もくれず、重要な実践を担っていったのは、若い主婦を中心とする反被曝派(放射脳)である。2011年以後もっとも重要なアクターとなるのは、彼女たちである。
反被曝派の強みは、実践の直接性である。放射能汚染の測定、移住、不買、給食や修学旅行の拒否といった直接行動を基礎にしている。彼女たちは獲得すべきものを直接に、即座に、手に入れる。政府や学者や議会の議論を待たない。政策の修正を待たずに、政策に先行して実践を進めていく。これは、「原子力緊急事態宣言」という法の例外状態に正しく対応した、行動様式であり、行動原則である。
 日本政府はこうした人々の動きを「パニック」と呼び、「風評被害」と呼び、繰り返し非難してきた。そして左翼の内にある政治主義的分子もまた、政府の尻馬にのって彼女たちを非難した。反被曝派を非難する者たちが共通して怖れたのは、統御することのできない直接行動主義である。反被曝派は誰にも統御できない。彼女は唯物論者よりも唯物論的であり、無政府主義者以上に無政府主義的である。中途半端な科学者など簡単に論破してしまうし、なまぬるい政治左翼の理屈に耳を傾けることもしない。「科学」にも「政治」にも統御されることのない人々が、誰の号令も待たずに、いっせいに直接行動にでたのである。


 ここまで書いてきて読者はもう察していると思うが、私は2011年以後の状況を、100年前の米騒動の状況に重ねて書いている。米騒動の偉大さと、その評価の難しさを、現在の状況と照らしあわせることで理解しようとしている。
 古典的な共産主義者はこれを、簡単に「自然発生性」と呼んでしまう。そして「自然発生性」と括ったとたん、あっさりと考えることをやめてしまう。統御できないものは考えなくてよい、ということなのかもしれない。あるいは、統御できないものの威力を直視する度胸がないのかもしれない。だがそういうことではいけない。
 自然発生的な動乱は、その後の権力の様式を変える。それは政治論争の内容だけでなく、政治の様式、政治の前提を、変えてしまう。1918年の米騒動からくみ取るべき教訓はここである。1918年以前と以後で、支配の様式が変わり、抵抗の様式が変わる。
 そうであれば、2011年以後の「原子力緊急事態宣言」下の騒動は、日本社会をどう変えるのか、だ。このことを、日本権力に先んじて、我々が把握するのでなければならない。ながく続いてきた政治の構図が、これから大きく変わるかもしれない。日本社会の根本的な変化が、まったく新しい闘争主体を創出するかもしれない。
 私の考えでは、この未来への希望、未来の主体は、「復興」政策を拒否した人々のなかに潜在している。それは、1918年米騒動を「自然発生的」と棚上げにしてしまうようなやりかたではなく、「女一揆」の偉業を正面から評価し、臨場感をもって感応するような、主体である。





2018年10月1日月曜日

渚さんが亡くなった



 歌手の渚ようこさんが亡くなった。
 衝撃で声が出ない。


 私が渚さんを知ったのは、音楽ではなく、お店の関係だった。彼女は新宿のゴールデン街で「汀」という店をやっていた。私がゴールデン街に店を出したのがたしか2003年頃だったが、そのころ彼女はすでに「汀」を繁盛させていた。私にとって渚さんは、同じ街で店をもつ同業者であり、先輩だった。
 自分の店を閉めたあとに、たまに「汀」に行った。行った、というよりも、連れていかれた。映画評論家の松田政男氏が、渚さんにゾッコンで、飲みにつきあっていると必ず「汀」に連れていかれるのだ。松田氏は当時すでに70才になろうというおじいさんだったが、女性に対しては現役だった。「汀」でしこたま飲んで、酔っぱらったあげく、「もうだめ、帰れない、ようこちゃんの家に行く」とねだるのだ。これが完全な冗談ではなく、いくらか本気がまざっているから始末に負えない。そんなときは渚さんと私とで朝まで介抱するというのがお決まりだった。この酔っぱらった老人を優しく介抱することもあったし、朝もやのけぶる花園神社に置き去りにして帰ったこともある。これだけごねる体力があるんだから、置いていっても死なないだろう、と。(実際、死ななかった。)

 そういうわけで私は、歌手としての渚ようこを、ほとんど知らない。一度だけリサイタルに行ったがそれっきりで、彼女の歌声をほとんど聴いていない。ただ、歌手と映画評論家と反戦活動家が、音楽の話も映画の話も社会運動の話もしないで朝までだらだらカウンターに座っているという関係が、心地よかった。そういう時間のすごしかたが、かっこいいと思えたのだ。

 渚さんと私との関係はこういうものだったので、歌手としての渚ようこや、彼女の歌について、何か評論めいたことを言おうとは思わない。
ただ私に言えるのは、彼女は厳格な美意識をもって、それを生涯貫徹させた人だったということだ。
 彼女は「昭和」の歌謡曲やファッションを転用し、一種のキャンプ・アートを構築したわけだが、それがコミカルな外見を見せながらコミカルなだけに終わらなかったのは、彼女が本気だったからである。冗談やおふざけでは、ああいうことはできない。彼女は本気だった。1960~70年代の風俗から自由主義やロマン主義のエッセンスを抽出し、再構成し、そこで示された価値を、彼女は確信をもって譲らなかった。
 彼女は「かっこいいブーガルー」でこう歌っている。

  かっこいい世界は
  探せばきっとある
  もしもそれが全滅したら
  いっそ昭和にワープだ

 こうした歌詞が完全に冗談であるなら、この歌は成立しない。この歌のかなりの部分が本気だから、こわいのだ。
すべてが冗談のように見えながら、すべて本気なのである。
 彼女が多くの人に慕われ、同時に畏怖されもしたのは、彼女の美意識が本気の姿勢で貫かれていたからである。松田氏が惚れこみ、私もまた彼女を畏れつつ慕ったのは、こういうところだったのだろう。
渚さんといるときに、多くを話す必要はなかった。
黙って座っているだけで、力を感じ、心が落ち着く。そんな人だった。
冥福を祈りたい。


かっこいいブーガルー