集会の準備作業で忙しいので、一言だけ。
勝共連合とNATO、どちらも東西冷戦時代の残滓が延命して発酵したような状態なのだが、今後どうなるのか。
2022年は後から振り返ってみれば、歴史的な年になるのかもしれない。
山上徹也氏が安倍晋三を殺害してから一週間がたつ。
当時の警備担当者は、警護の失敗を振り返るなかで、山上氏が発声をしなかったと述べている。警備担当者は、襲撃者は必ず怒声を上げてやってくるという想定で訓練していたのだという。「安倍!」「死ね!」または、「天誅!」といった怒声があり、その次に発砲か体当たりをしてくるだろう、という想定だ。しかし、山上氏は無言で接近し、無言のまま発砲した。これには完全に虚を突かれた、というのだ。
山上氏の行動には無駄がなく、無駄な表現がない。どこにでもいそうな目立たない服装で、その動きには殺気がなく、警備担当者がまったく関心を向けなかったというのも無理もない。山上氏の行動は、政治というよりも業務に近く、テロではなくソリューションである。彼はまったく無駄のないやり方で、課題を解決したということだ。
山上氏の行動スタイルは、安倍晋三のやり方とは対照的だ。
安倍晋三はやたらと声がでかく、挑発的な言辞を繰り返し、芝居がかったパフォーマンスを好んでいた。それは内容があってそうなったのではなく、安倍晋三が権力をそのようなものとして理解していたということだ。大声で号令をかける演説屋。それこそが権力であると安倍は理解し、演説屋として振舞ったのである。振り返ってみれば、ずいぶん古風な権力観ではある。
山上徹也氏は、安倍よりもはるかに現代的なやり方で、安倍を処理した。彼は無言で銃を作成し、無言のまま近づき、発砲した。見事である。山上氏に対する人々の称賛の多くは、この現代的な行動スタイルと問題解決能力の高さに向けられている。目立たずけれんみは無いが、着実に問題を処理する人間。彼が作戦を成功させたことで、声のでかい政治家は陳腐なものとなった。維新の会のような口数の多い政治家は、その言葉の無内容ではなく、表現の過剰によって、前時代的な政治家とみなされるようになるだろう。
こうした点からみて、岸田文雄はおそろしい。
彼の政治には、表現が欠けている。号令をしないまま、無言で権力を行使する。
岸田文雄は、山上徹也氏に似て、現代的だ。
山上徹也氏が安倍晋三を殺害したことで、カルト教団・家庭連合(統一教会)の悪事が再検証されている。
わかってきたのは、日本の反共主義思想・運動のうちのいくらかは、カルト教団によるマインドコントロールの成果であるということだ。生活の不安や恐怖心を抱く人々が、地獄やら因縁やらという強迫によって従属させられ、自ら思考することは悪、共産主義者は悪魔だと教えられてきた。被害者の多くは困難な境遇にある女性だ。恐怖心によって操作される人々が、右翼政治家の資源にされてきたというのが、反共主義の実相である。
日本最大の労働組合組織「連合」の芳野会長は、強烈な反共主義で知られているが、彼女が統一教会やそれに類するカルト団体のマインドコントロールにあっていないか、点検されるべきだと思う。旧「同盟」や民社協会は、カルト汚染から自由になっているのか。反共主義者は、自らの意思で行動しているのかどうか疑わしいのだ。
安倍晋三が殺害された経緯が徐々に明らかになってきた。
単独犯なのか組織的犯行なのかはまだ断定できないが、カルト教団・家庭連合をめぐる怨恨がらみの犯行だったという。
なんともユニークな、いや率直に言って、みっともない事件だ。安倍は総理経験のある大物政治家でありながら、まるで引退したボクサーや売れなくなった芸能人が不幸にも巻き込まれてしまう類の犯罪にみまわれたのだ。政治家として、完全な不祥事だ。安倍以外に死傷者が出なくて本当によかった。
しかし安倍晋三という人間は、最後までインチキな、やってる感だけの人間だった。この紛らわしい珍事件によって、まわりの政治家は少なからず恥をかかされてしまった。
高市早苗議員は「政治テロだ」と語気を荒げ、小池東京都知事は「民主主義への挑戦だ」と目を潤ませ、アメリカのトランプ前大統領は「彼は暗殺された」と口走ってしまった。しかしふたを開けてみれば、事件は政治テロでも暗殺でもなく、安倍は私的な怨恨によって殺されたのだ。最後の最後に紛らわしい置き土産をおいて、人々を騙したのだ。
これ、国葬とかやるのか?
観ているこちらが恥ずかしいのだが。
政治活動にたいして暴力をもって圧迫を加えることは許されない。
テロリズムは民主主義にたいする破壊行為である。断じて許されない。
山上氏の行為が民主主義の破壊へと向かうのか、その反対に、民主主義の再生へと向かうのかは、私たちの今後の行動にかかっていると思う。
山上氏と同じく1970年代に生まれた「氷河期世代」の我々は、みなカーゴパンツを履いて政治家の前に立とうではないか。反民主主義を極めた日本社会に対して、言論の回復と民主主義の復権を求めて、カーゴパンツで登場しよう。
数日前の日本のニュース。
ウクライナのゼレンスキー大統領が、日本の大学生に向けて、オンライン講演会を行った。会場となったのは、東京の東洋大学だ。会場には300人ほどの学生が集まったという。テレビのニュース映像では、数人の学生たちに講演の感想を聞いていた。感想の内容はここではおくとして、異様だったのはその画面だ。インタビューのカメラは、学生の首から下だけを映して感想を語らせていた。一人ではない。インタビューに答えるすべての学生が、顔を映さない状態で感想を語ったのだ。
なんだろう。まるで、犯罪報道で、犯人を知るクラスメートにインタビューをしているような画面。あるいは、風俗街の話題でストリップ劇場の客にインタビューをしているような。この学生たちは、ゼレンスキー大統領の主張に耳を傾けたにすぎない。しかしその行為は、どこか不名誉で、あるいは破廉恥で、堂々と公言することがはばかられる何かなのだ。
ウクライナ政府の主張と、それを無批判に垂れ流すマスメディアの論調は、破廉恥である。破廉恥というのは、相対的な評価ではなく、絶対的な評価である。その特徴は、ベラベラとよく喋ること、過去の経緯に触れないこと、かわりに嘘や邪推をふんだんに盛り込むこと。この破廉恥さを分析し説明するには、国際政治学ではなく、女性学が適していると思う。
「価値観を共有する西側諸国」が、この戦争を制御できなくなっている最大の原因は、彼らがロシア政府の主張を字義通りに受け止めることができないからである。「西側」はつねに相手国の声明に解釈を加え、書いてあるものを読まず、書いていないものを読み込む。この誤った解釈の機制は、性差別の場面に頻繁にあらわれるものだ。こういう解釈のゲームに浸りきると、もう自力ではどうすることもできなくなる。彼らは認知の歪みから抜け出すことができない。認知の歪みにまかせて、ゴネるか暴れるかしかないのだ。
これは、 「西側」につくかロシアにつくかというような相対的な評価の問題ではない。絶対的な評価として、「西側」は破廉恥である。