2015年11月24日火曜日

ヤケドしそうな熱いやつ

福岡の森元斎くんから献本をいただいた。ありがとう。



失礼は承知で言うのだが、私はこれまでたくさんの献本をもらってきたが、私より若いやつがどんな本を書いたところでたいしたことはねえ、と思っていた。
それは口に出しては言わない。大人だから。
でも、たいした内容は書いてないんだから。
まあ、はっきり言うが、私はいまの30代の書き手をなめている。

しかし今回は違う。
これは、やばい。
『具体性の哲学』なんて売れなそうな退屈そうなタイトルなのに、書き出しの1ページ目から文章の「圧」がすごい。

まずい。
私の自尊心が崩れていく。

しかもこいつはパンクである。以前、一度だけカラオケをやったから知っているのだが、森元斎はパンクだ。そしてさらに、こいつは移住者だ。2011年の3月に命からがら東京を脱出した「放射脳」の哲学者だ。

こういう書き手は怖ろしい。
なにを言い出すかわからない。
やばいやばいやばい。
gkbrgkbr。
どうか森元斎が暴発しませんように。



2015年11月4日水曜日

視覚の支配が終わるとき




 スペクタクルの社会は、人間が視覚情報と数字に翻弄される社会である。メディア制度によって観客化された人々は、可視的なものを重視し、可視的でないものを無視してしまう。視覚表現の氾濫は、誰も抗うことのできない趨勢のように思える。いまや誰もがカメラとモニターを持ち歩き、一日に何度も画像を送受信している。

 昔を知っている人は思い出してほしいのだが、いまから15年前、自民党小泉政権の政治手法が「劇場型政治」と呼ばれたとき、そこには、「表面的で深みのないもの」「芝居がかった嘘くさいもの」という批判的なニュアンスがこめられていた。そうした批判意識は、一部の教養人だけでなく一般的に共有されていた。しかし現在ではどうだろう。政治家の芝居がかったパフォーマンスは、とてもありふれたものになっていて、いちいち批判されることもなくなってしまった。小泉政権のおこなった「ワンフレーズ政治」は、当時ひどく不誠実な態度として受けとめられたが、現在の安倍政権に比べればかわいらしいものに思える。

 私が問題にしているのは現在の自民党だけではない。自民党と対決すべき批判勢力が、平板で通俗的な「劇場型政治」に傾いていないかということだ。
2011年以降、左翼の街頭行動は頻繁に大規模になっていったが、それはいつからか、写真と数字(動員数)をアピールする道具になってしまっているのではないか。新聞やテレビやインターネットに配信される画像の仕上がりから逆算して、人間が画像にふさわしい演者として振る舞うように仕向けられているのではないか。課題をめぐるディテールの分析や時間のかかる概念的作業を避けて、メディア制度に受け入れられやすいワンフレーズを求めていないだろうか。これは、いいすぎだろうか。

 2012年。ある還暦を過ぎた共産主義者は、国会前の大衆行動の渦中で、「これは60年安保闘争の再来だ」と言った。半世紀前に敗北した安保闘争をもう一度やり直すのだ、と。このような連想は特殊なものではない。おそらく彼以外の少なくない人々が、60年安保闘争を想起していた。ここには、2012年の国会前行動の思想的限界があらわれていると思う。
 考えてみてほしい。2012年に生じていた課題と闘争は、60年安保闘争に似ていただろうか。大衆運動の数多ある歴史のなかで、特に60年安保闘争を想起する理由があっただろうか。日本史のなかで大規模な大衆運動はいくらでもある。米騒動、食糧メーデー、阪神教育闘争、吹田事件、大須事件、原水禁運動、革新自治体運動、ベトナム反戦運動、全共闘運動、チェルノブイリ後の反原発運動、イラク反戦運動、等々。
 ある新聞社は、2011年の汚染米の不買騒動を、「平成の米騒動」と表現した。この連想はあながちはずれていない。しかし課題に即して順当に考えるなら、80年代の反原発運動を想起するのが自然だ。80年代にあらわれたリゾーム状の闘争、政治闘争の構図におさまらない社会的闘争、女性たちの直接行動主義が参照されるべきだろう。(もちろんこれは、もしも歴史を参照するなら、という仮定の上での話だ。)
 2012年の国会前行動と60年安保闘争を結び付けていたのは、群衆が国会をとり囲むという光景だけである。たんに視覚的な構図が似ていたというだけだ。ここにあらわれた連想は、歴史の想像力ではなく、視覚メディアの想像力である。テレビ世代の高齢者たちは、画像の視覚効果に翻弄されて、起きている事態の性格を見誤ったのだ。


 国会前行動の錯覚を中和するために、ここで80年代の運動を振り返っておく。現在の状況に照らして、80年代の運動に参照すべきものがあると思うからだ。
 80年代の大衆運動を特徴づけているのは、個人主義であり、単独行動主義である。単独行動主義による大衆運動というのは、ちょっと想像しにくいかもしれないが、これは本当だ。
 実例として、身体障害者の自立生活運動と、在日外国人の指紋押捺拒否闘争を挙げておく。
 ある身体障害者が施設を出て、自分のアパートを借りて住む。施設での生活を拒否して一人暮らしをする。この運動は、障害者の団体を結成して、団体に意見を集約して、団体から行政に要求をして、という手続きをとったのではない。そうではなくて、施設の外に協力者(介助者)をつくり、個人的に連絡をとりながら準備を進め、ある日単独で施設を脱走するのである。それは団体のしがらみを離れて単独にならなければ実行できない。そして自分が決意さえすれば、単独で実行できる。そういうやり方だ。
 在日外国人の指紋押捺拒否闘争も、同様である。彼らは、在日韓国人の団体で合意形成をして、みんなで示し合わせて、せーので拒否をしたのではない。自分の考えと決意だけで、単独で拒否をしたのだ。みんながやるから俺もやる、というのではない。誰もやらなくても俺はやるよ、という構えだ。
 こうした方法は大衆運動として成立しないと思われるかもしれないが、そんなことはない。単独主義の行動は伝播し、同調者を生み、実際に制度を変えさせる力になっていった。こういうダイナミズムがあるから運動はおもしろい。

 2011年から始まった原子力政策との闘争を特徴づけているのは、80年代と同じく単独行動主義である。大規模な「国民運動」に見えているのは、全体のなかのごく一部にすぎない。10万人を超える群衆が国会を包囲した光景に驚くのはいい。しかしもっと驚くべきは、10万人を超える人々が、仕事も家族も放り出して汚染地域から脱出していったという事実である。動いているのは移住者だけではない。全国で市民測定所がつくられ、さまざまな検体を調べる。清掃工場、給食センター、食品メーカー、農協や漁協に電話をする。東日本産の食品をブロックするために、さまざまな働きかけをする。こうした実践は、みんなで示し合わせて実行しているのではない。おのおの単独でやっているのだ。これが制度を変えさせていく大衆のうねりである。
 こうして見ると、国会前に集結した10万人を「大衆運動のうねり」と呼ぶのは間違いである。それは「木を見て森を見ず」というものだ。たかだか10万人の陳情デモなんてものは権力を揺るがせるには足りない。権力にとって真に恐ろしいのは、市役所にやってきて給食問題の交渉をする3~4名の母親たちだ。政府がどれだけ説得をしても、東日本の産品を買わないと決めたひとりの消費者である。
 こうした実践は可視化されない。ただたんに買わないという行為は可視的な光景にはならない。だが、そういうものこそ強い。それは政治的な表現や思想的な概念化を待たずに、即座に直接に実行される。理屈はあとからついてくるのだ。

 私たちはふだん、事物を空間的に把握し、空間的に構想することに慣れている。「構造」とか「見取り図」というとき、それは空間に置き換えて表現された「構造」であり「見取り図」だ。「見通し」、「絵をかく」、「パースペクティブ」、空間的な表現によって事態を示すこと。そうした手続きをふむことが「知性」なのだと考えられている。
 しかし、そうではないのだ。いま全国で実践されている反放射能騒動のうねりは、なんの「見取り図」ももっていない。この行動の先にある「将来像」というものを提示しない。そんなものに執着する必要はないのだ。かわりに彼女が神経を注ぐのは、自らの行為を一貫したものとしている持続の時間、空間的な配置を変革してしまう生成変化の時間、構造を構造化するプロセスにごまかしもインチキもなく関与するという意志である。ここで通さなければならない「スジ」、正義、それらは持続の位相にあって、意識されているのは時間である。“構成された権力”が空間的に構想されるのに対して、“構成する権力”は時間を生きている。

 話が散漫になった。時間については、もっとしっかり議論したあとに、改めて論じたい。

 とりあえず私が言いたいのは、こうだ。
 可視的なもの、光景、見世物、数字、空間的に構想される「政治」、「ポジショントーク」、そんなものはまったく求心力を持たない。すぐに陳腐化して飽きられてしまう。
 そうではなくて、空間に亀裂を入れる一瞬の時間、契機、に、触れること。闘争を眺めるのではなく、闘争の時間を生きること。
「見取り図」がないからといって防衛的な態度をとるのは間違いである。
先人たちはなんの見取り図もなく闘ってきたのだから。

 

2015年10月13日火曜日

タモリがめんどうくさくなっている

タモリとマツコデラックスという二人のテレビタレントが、缶コーヒーのキャンペーンかなにかでトークショウをやっているのだが、これが、驚くほどグダグダである。
配信してはいけないレベルのつまらなさ。

http://www.excite.co.jp/News/entertainment_g/20151006/MaidigiTv_43158.html


高齢化のためか、被曝症状によるものか。

東京がはつらつとしていた時代が終わるのだと感じた。



2015年10月7日水曜日

さよなら銀河系


 新宿ゴールデン街のバー「銀河系」が、今月いっぱいで閉店する。
店主の伊藤清美さんから手紙をいただいた。


 「銀河系」は、1970年代に大野さんという人が始めたお店だ。アナキストの松田政男氏が開店資金を準備し、店の名を「銀河系」と命名したという。私がこの店に出入りするようになったのは2002年以降なので、全盛期の銀河系を知っているわけではない。私が知っているのは、大野さんから伊藤さんに引き継がれたあとの、二代目銀河系だ。


 私が初めてこの店に連れていかれたのは、30歳を少し過ぎたころ。アメリカがアフガニスタンに侵攻し、日本では有事法制にたいする反対運動が行われていたころだ。
 銀次という先輩に、大事な話があると呼び出された。
銀次は、東京のアナキストなら知らない者はいない、凶暴で面倒くさいタイプのアナキストだ。彼は80年代に山谷の日雇い労働運動に加わり、暴力団金町一家との戦闘をくぐってきた武闘派である。ベルリンの武闘派左翼「アウトノーメ」のスタイルを日本に紹介したのは、この男だ。黒いパーカーを着たアナキスト集団というスタイルは、現在では見慣れたものになったが、90年代にそんなトッポイ恰好をして歩いているのは、銀次とそれ系統の若いアナキストだけだった。銀次とはようするに、私の先輩である。
 私の先輩と言っても、大学の先輩というのではない。銀次は高校を中退して、大学に進学しなかった。大学に行くのではなく、労働運動のなかで、アナキストの思想を鍛錬してきた人だ。私もそうだ。私も高校を中退して、独学で現代思想を学んできた。松田政男氏もそうだ。松田氏は高校卒業後すぐに共産党の労働組合オルグとして働き、50年代の「神山派」を経て、共産党除名後にアナキストになった人だ。松田氏、銀次、私は、大学教育とは無縁な労働者アナキストの系統である。
 話を戻す。
 最初に銀次に呼び出され銀河系に連れていかれたときは、とても緊張した。緊張しすぎて酒の味なんてわからない。おっかないアナキストの先輩に、肩が触れ合うほどの至近距離で、「大事な話」を聞かされるのである。薄暗いバーの店内でサングラスをしているヤクザのようなオッサン、腰には三段伸縮パイプを携行、しかも頭の中身はアナキストだから、口から出てくる言葉と概念がいちいち物騒なのだ。
 銀次の用件はとてもシンプルだった。「最近グッドウィルとかフルキャストとか派遣業者の奴らが調子にのってんだよ。ガツンとやってヘコましてやらなきゃいかん。組合をつくって闘うから、おまえも加われ。」
 丁重にお断りした。組合をつくるのはいいとして、銀次と一緒にやるのはとても考えられない。それはいやだ。お断りした。一発二発なぐられるのは覚悟したが、この日は意外にもあっさりした反応で、無傷で帰ることができた。

 銀次先輩のお話を丁重にお断りしたあと、私は何人かの友人に労働組合の結成をもちかけた。そのなかで、高橋くんと安里くんという二人の大学生が、一緒にやろうと言ってくれた。三人で、学生・若年労働者のおかれた状況について討議する会をもった。2002年の冬だった。このとき「フリーター全般労働組合」の準備会がスタートした。いまから13年前の、もう、すっかり昔話だ。



 銀河系に初めて連れていかれたときは生きた心地がしなかったが、その翌年には自分の足で店に通うようになっていた。
 二代目の店主の伊藤清美さんが、安い料金で飲ませてくれたということもある。しかしそれ以上に、銀河系という店の魅力が大きかった。
伊藤さんの魅力であり、飲んでいる客の魅力だ。
客の顔ぶれはさまざまだった。演劇人、映画人、アーティスト、文筆業、編集者、新聞記者、大学人、赤軍派、中国派、アナキスト、詩人。有名人もいれば、裏方もいた。成功した人もいれば、挫折した人もいる。ひとクセもふたクセもある大人が集まって、酒を飲んでいた。そしてみんな、暴力の匂いをさせていた。

 そう。銀河系という店には、暴力の匂いがあった。暴力、と言っても、いつも客同士で殴りあっているということではない。そうではなくて、人間の姿勢である。たとえ相手が何者だろうと馬鹿なことを言いやがったら殴るぞ、という姿勢があった。それは、松田政男氏や東郷健氏のような長老クラスから、私のような新入りの若造まで、それぞれ経験も課題も違っていたが、だれもが自分の言葉の奥底に暴力を蓄えていた。
自分の暴力だけを頼りに、ピンで立っていた。
だからあんなに穏やかに、落ち着いて、酒を飲むことができたのだ。
 


 もうひとつ、思い出話。
 2006年に私は2冊目の本を出して、そのころは『VOL』という思想誌の創刊に編集委員として加わってもいて、これからみんなで売り出して勝負をかけるぞ、というときだった。
 朝日新聞の夕刊に、新人の書き手を紹介するコーナーがあって、そこから取材の話が来た。著書と人物を写真入りで紹介してくれるという。ありがたい話だ。ありがたい話なのだが、その取材の前日に、私はヘソを曲げて取材をキャンセルしてしまった。ドタキャンである。
 きっかけは、ある事件報道だった。秋田県の北端にある藤里町というところで、母子家庭の母親が娘を殺してしまったという事件があった。この事件では、新聞社や週刊誌やテレビ局が容疑者の住む町営住宅に押しかけ、その後「メディアスクラム」と呼ばれて問題視されるほどの過熱報道があった。
 容疑者が逮捕された翌日、新聞各紙の一面には彼女の全身写真が掲載された。一面トップである。朝日新聞も他紙と同様に、容疑者の写真を大きく一面に掲載した。これを見て、ブチッと切れた。もう我慢できなかった。朝日新聞に電話をして、事件報道と人権についてごちゃごちゃ言って、さいごに「あんたんところの取材なんか金輪際うけねえよ」と言ってしまった。
 朝日の記者は怒ったし、本をつくってくれた担当編集者はもっと激怒した。それはそうだ。これから売り出さなきゃいけないのに、宣伝の取材を断るなんてありえない話だ。『VOL』の仲間も冷ややかだった。みんな呆れて口を聞いてくれない。まあ、それはそうだ。これからいろんなメディアに出張っていかなきゃいけないのに、新聞社とケンカしてなんになるのか。
 私もさすがにおとなげなかったかもしれない。と、反省する感じになっていたところに、銀河系の常連客仲間が私を見つけてうれしそうに言った。「おいおめえ、朝日新聞の取材ことわったらしいじゃねえか! やるじゃねえか! 見直したぜ!」と。
 無責任と言えば無責任だ。悪友と言えば悪友だ。まあ、こういう感じだ。ひとの事情も知らないでまったく無責任に激励してくれる悪友というのは、一人ぐらいはいてもいいのではないかと思う。
 バカな意地をはってやらかしたときに、「知ってるよ、お前はバカなアナキストだもんな」と笑ってくれる人が、銀河系にいた。
 なつかしい思い出だ。


2015年10月2日金曜日

RADIO KY


東京から来た若い組合活動家に、「最近は書いてないんですか」と聞かれた。

そういえば、最近は紙媒体に書いてないね。
東京の某出版社で本の企画を進めていたが、結局ぽしゃった。
「話を詰めたいから名古屋に来てよ。社長も来てよ。」と言ったら、見事に来なかったね。
書き手をなめてんだよな。
まあいいや。


いまはブログとべしゃりがメインです。

べしゃりはこちら↓
RADIO KY

氷河期ユニオンの小島くん(K)と、矢部(Y)がしゃべってます。音楽はなし。しゃべるだけ。

2015年9月27日日曜日

なぜ逮捕された者が中傷されるのか



 国会前で逮捕拘束された13名が、全員釈放されたという連絡を受けた。
 よかった。がんばったみなさん、おつかれさま。



 反戦派の若い人たちが、今回の救援活動を懸命に取り組んだのは良いとして、そのことに私はまったく口出しをすることはないのだが、他方で、みっともない振る舞いをする不良分子が少なからずいるということなので、ここにひとつ文章を書いておく。
 今回逮捕された人々に対して、「彼らは過激派だ」とか、「逮捕されたがっている人たちだ」とか、そういう中傷はやめろ。そういう根拠のない流言によって、誰が得をして、誰が損をするのか、よくよく考えなさい。
 被逮捕者が中傷されることで得をするのは、もちろん警察だ。反戦運動に対する暴力的な圧迫を追認する人間が、反戦運動の内部に存在するということは、警察にとっては大助かりである。
 このことで損をするのは、中傷をした人間自身である。中傷された者が傷つくのではない。中傷した者が、格を下げることになる。いいだろう。他人を中傷することで自分の点数が上がるというのは、会社や政治結社の内部政治では通用する公式なのかもしれない。しかし、大衆運動のなかで他人を中傷することは、まったく反対の効果を生む。他人を中傷することは、自分の弱さをさらけ出すことだ。それはテンパっているということだ。経験の少ない学生たちが留置場で歯を食いしばって闘っているときに、ロートルがテンパってどうするのだ。そんな器の小さい人間に誰が付いていくというのか。みっともない真似をするなというのだ。

 さて、「格」とか「器」とか、少々わかりにくい表現をしたので説明する。
 警察と対峙する救援活動は、政治的実践である前に、経済的実践である。それは最初から最後までカネと労力を必要とする。まず弁護士費用がかかる。留置場と裁判所を行ったり来たりするために、自分の仕事を休んでも働かなければならない。交通費や通信費も意外にかかる。勾留が長期化すれば被逮捕者は仕事を失うかもしれないし、その期間の家賃もなんとかしなければならない。誰かが警察に持っていかれるということは、その日から救援資金をかき集め、仕事を休んでただで動いてくれる仲間を集めなければならないということだ。そんな仕事は誰も引き受けたくないのだ。誰かがやってくれたらいいなと、みんな思うのだ。救援活動とは、誰かがやらなければならないが誰もやりたがらないシャドウワークであり、アンペイドワークである。
 シャドウワークはシャドウワークであるがゆえに、中傷されることになる。ここにはもうひとつ経済的な力学が働いている。
シャドウワークは固有の喜びを伴った労働であるが、それを担わないでいる人間にとってはめんどうな尻拭いにしか見えない。目先の損得しか考えない打算的な人間にとっては、誰かに押し付けてすませたい労働だ。彼は休日や仕事帰りに集まって、笛を吹いたり太鼓をたたいたりということだけをしていたい。警察のバリケードを突破して路上に広がって集会をしたい。トランジスタメガホンを握ってかっこいい主張をしたい。しかし、その結果生じた弾圧については、引き受けたくないのだ。
 こうした態度が無責任であると指摘されないためには、彼は弾圧された当事者に責任を転嫁するしかない。自分が救援のシャドウワークを担わないですませているのは、自分には責任がないからだと言わなくてはならない。逮捕された者の自己責任だ、ということにしなければならない。だから彼は被逮捕者を中傷するのだ。彼は被逮捕者を中傷することで、自分以外の誰かに救援活動を押し付けていることを正当化するのである。
 これはとてもありふれたやりかただ。うまくいった成果は自分の手柄、うまくいかないことは他人の責任。そういうケチな生きかたをする人間はいる。それが格下ということだ。器が小さいということだ。


 日本共産党の木下ちがやというのが、国会前の行動で「警察対応」をやっているらしい。とうに東京を離れた私の耳にも、やつの苦情はたくさん届いている。あいつを調子づかせてしまった原因の一端は、私にもある。2008年の北海道・洞爺湖サミットの反対行動で、木下をリーガルチームに入れてしまったのだ。そのときから木下は「リーガルチーム」風を吹かせるようになったようだが、いまきちんと証言しておくのだが、木下は反サミット行動の救援でケツをまくっている。札幌で逮捕された人たちの救援を、木下はやっていない。最後の一人が釈放されるまで札幌に残って働いたのは、菰田、仲田、栗原、noiz、平沢、私、そして地元の「自由学校・遊」と北大の人たちだ。あのとき「リーガルチーム」木下ちがやは、いつの間にかいなくなっていた。まったくなさけないやつだ。
木下には警察と対決する根性がない。
腹が据わっていない。
だから彼の書く文章には深みがないのだ。










追記

 大事なことを書き忘れた。
 私は反戦運動を支持しているが、国会前の行動はまったく支持していない。
 とくに、若者が東京の路上で座り込むというような行動は、ダメだ。
 放射線被曝は距離の二乗に反比例するから、地面に腰を下ろすということは、その分だけ多くのベータ線を人体に撃ち込まれるということである。泌尿器・生殖器がやられる。

 もう国会前の攻防は一段落したのだから、東京を引き揚げて、北海道か名古屋以西に退避してほしい。



2015年8月24日月曜日

雨に注意

神奈川県相模原市の米軍弾薬庫と、川崎市の工場群が、相次いで火災を起こしている。

何が燃えているのかはわからない。
そこにウランがあるのかないのかという重要な情報が発表されない。

2011年の市原市ガスタンク爆発事件を参照するならば、事実が発表されるのはずいぶん後になってからだ。
この煙の内容物には慎重になるべきだろう。
雨にあたることは避けよう。

2015年8月13日木曜日

9月、大阪のイベントにでます


9月8日~12日まで中津文化祭。大阪に行きます。
このイベント、公開シンポジウムの出演陣が老若そろって豪華です。
F・ガタリ『分子革命』A・ネグリ『構成的権力』など多数の翻訳で知られる重鎮杉村昌昭さん(60代)、
『通天閣』でサントリー学芸賞を受賞した酒井隆史さん(50代)、
『3・12の思想』矢部史郎(40代)、
『釜が崎のススメ』編者の原口剛さんと、『現代暴力論』の栗原康さん(30代)。
目玉は、放射能汚染を逃れて東アジアを行ったり来たりの江上賢一郎。

いやあ豪華だわ。これはいい。

2015年8月10日月曜日

川内原発再稼働


九州電力・川内原発が再稼働する。
これまで4年間の反原発運動は、力の限界を確認してその役割を終える。
これから本格的な闘争が始まる。

今後は、政府に対する陳情集会によって原発の再稼働を阻止できるなどと考えないことだ。
サラリーマンが仕事帰りに集会に参加したり、労働組合がやるべきことをやらず市民集会への参加でお茶を濁したり、そういう小手先の運動で原発を止めることはできない。
これからは本腰で、人生をかけて、原子力政策と対決しなくてはならない。


仕事をやめろ。
移住しろ。
東京電力になにもかも奪われたという事実を、はっきりと顕在化させよ。
これから長い公害闘争が始まる。

2015年8月8日土曜日

構造化された無関心


 そろそろ関東の被曝者に重篤な症状があらわれる時期である。
原発爆発後にうっかり汚染地域に入ってしまった者は、いましっかりと身体検査をしておくべきだ。初期被曝をうけているならば、血液検査は必須だ。
 自分の周りでは病気になっている人はいない、というかもしれない。ならば、一度おおきな病院に行って、待合室を見学してみればいい。現代社会は病いを病院に隔離している社会だから、ぼんやりと街を眺めているだけでは異変に気がつかない。そもそも病気の話というものは、ベラベラと気安く他人に話すものではない。脳機能障害、婦人病、泌尿器や生殖器にかかわる病気は、よほど親密な関係でなければ話さない。だから我々は身近に起きている異変に気づかず、ずいぶん後になってからマスメディアの報道を通じて事実を知らされることになる。そのときには手遅れである。
 誤解がないように急いで付け加えるが、私は「健康状態に関心をもちましょう」とだけ言っているのではない。無関心ではいけませんと言うだけなら、医者だってそれぐらいのことは言う。私が言いたいのは、現代社会は無関心を構造化している社会であって、その構造をしっかり見ておくべきだということである。
 ここでは二つの例をあげておく。


 
1、特異性(差異)の否認
 放射能汚染公害によってわれわれが学んだ重要な概念に、「ホットスポット(特異点)」というものがある。汚染はむらなく均質にあるのではなく、低濃度の地点と高濃度の地点が複雑にからみあうパッチワークを形成している。このパッチワークのなかで、ホットスポットは無視することができない。ホットスポットは「例外的なもの」として切り捨ててよいものではなく、むしろ不意にあらわれるホットスポットをこそ把握しなくてはならない。もしも汚染物質の動態の法則性をつかみ予測することが可能になるなら、それはホットスポットを予測できるものでなければならない。これは、今次の放射能汚染によってわれわれが学んだとても重要な視点である。
 しかし同時にわれわれが知った残念な事実は、日本の一般的な「科学者」というものが、特異点という概念をまえに思考を停止してしまうということである。日本の素朴な「科学者」たちは、特異点の存在を「例外」として排除してしまう。まるで工業製品の検品担当者が不良品をはじいていくようなやりかたで、特異点をはじいて、それ以上考えることをやめてしまうのである。これは驚くべき愚鈍さだが、ある意味しかたがないことではある。日本の「科学者」たちは小さな産業的な成果しか期待されず、最低限の哲学教育も受けていないのだから。彼は上司から渡されたモノサシで測れるものだけを測り、測れない特異なものを見落とすのである。
 これと同様の誤謬が医学の分野でもある。人体への被曝の影響をめぐる論争のなかで人々をうんざりさせた言葉に、「エビデンス」という言葉がある。予防原則に対抗するかたちで「エビデンス」という言葉が使用されるとき、それは科学ではなく、科学の風を装ったイデオロギーの宣言である。
 人々が予防原則を主張するとき、それが意識的にあるいは無意識に念頭においているのは、人体の特異性である。人間の体は一様ではなく、さまざまな差異をもってあることを、われわれは前提にしている。標準的・一般的な人体などというものは存在しない。人間はなんらかの持病をもっていたり、複雑な病歴があったり、体の弱さにもさまざまな体質の違いがある。あたりまえのことだ。そうした複雑多様な差異をもった人体を問題にしているときに、「エビデンス」を要求するということは、「エビデンス」を得ることのできないような特異な症例を切り捨てるという宣言にほかならない。
 例えば長崎出身の被爆三世の女性が東京で内部被曝を被ったとき、その被曝の影響はどうなるのか。そうした特異なケースについては考えなくてよいというのなら、われわれは何も考えなくてよいことになる。そこで議論されている対象が何なのかを見失うことになる。われわれは、身体検査をクリアした成人男性の原発労働者の被曝影響について議論しているのではない。われわれは、震災後に飲料水をもとめて並んでいるときになんの予告もなく放射性物質を浴びせられた老若男女の話をしているのだ。数千万種類のそれぞれに特異な人体を、どのように放射線から防護していくかという議論をしているのである。「一般公衆」とは、特異性を排除して切り縮めた「一般」ではなく、現実に存在する特異なもののひろがりなのである。
 土地の汚染調査についても人体への被曝影響についても、共通しているのは、注視されるべき特異性が、特異であるという理由で自動的に無視される、という構造である。「科学者」たちの古い慣習(イデオロギー)が、差異を否認し、現実を見えなくする。
これは無関心の構造のひとつである。

2、公害隠しの「復興」政策
 今次の放射能汚染は、明白な公害事件である。公害原因企業が東京電力であることははっきりしている。汚染物質は主要な物質が特定されている。被害の全容はまだ不確定だが、少なくとも福島県民の健康被害は確認されている。関東東北地域は、過去に起きたどの公害事件をも凌駕する巨大な公害事件の舞台になったのである。
 政府は当然、公害の隠ぺいをはかる。
政府はまず今次の放射能汚染を公害事件として位置付けることを拒絶した。かわりに、「原子力災害」という謎めいた概念で対応したのである。いったい「原子力災害」とはなにか。これは災害なのか。われわれが受けているこの継続的な恐怖と被害は、災害なのだろうか。われわれは今後、「原子力災害」という概念の疑わしさについて、あらゆる角度から批判しなければならないだろう。
 「原子力災害」というごまかしは、つぎに「復興」政策を要請する。ここでは東日本大震災の被災地への対応と、放射能汚染の被害地域への対応が、意図的に混ぜ合わされている。しかし「復興」キャンペーンによる印象操作を中和するためにあえて言うが、「復興」政策の第一の目的は、震災・津波被災地の復旧ではない。「復興」政策は、東日本大震災ではなく、「原子力災害」に対応して出されてきた政策である。当時の野田政権が何を言ったかを想い出してみればよい。野田首相(当時)は、「福島の再生なくして日本の再生なし」と言ったのだ。政府の主眼にあったのは放射能汚染被害への対応である。政府は、放射能汚染問題にたいして災害復旧の論理で対応し、その公害問題としての性格を後景化させるために「復興」政策を号令したのである。その証拠に、「復興」政策がもっとも力を注いだキャンペーンは、「食べて応援」キャンペーンである。放射能に汚染された食品を食べろというのである。政府が第一の目的としてきたのは公害問題を隠ぺいすることであって、震災・津波被災地の復旧という課題は、公害隠しを正当化するための名目に使われたわけだ。
 こうした国策の下で、人々がなにを忘れることになったのか、ひとつ例をあげておく。
 2011年の暮れ。三陸のある津波被災地の様子がテレビに映し出される。この町では、海沿いに町を再建するか、海から離れた高台に集団移転をして町を再建するか、議論が重ねられている。アナウンサーは、被災者の苦難に寄り添うかのような態度を示しつつ、いつもの決まり文句でこの話題をしめくくる。「一日も早い復旧が待ちのぞまれますね」と。
そうではないのだ。一日も早い復旧を待ちのぞんでいるのは、いったい誰なのか。アナウンサーは他人だからそう考えるのかもしれない。だが、被災者はどうなのか。よく考えてみてほしい。2万人もの人間が津波にのまれ亡くなっているのだ。身内を失った者は数多く、遺体がかえってきていない人もたくさんいる。それほどの大災害を目の当たりにした人間が、「一日も早い復旧を」などと考えるだろうか。私なら恐ろしくてとても復旧どころではない。たとえばある漁師の息子が、将来は親といっしょに船に乗ろうと考えていたとして、しかしあの大津波はそんな将来像を粉々にするだけの破壊力をもっている。彼が、もう二度と海の見える町には住みたくないと考えたとしても不思議ではない。
 「復興」政策は、被災地の復旧を自明視しているし、復旧という結論を先に設定して議論を始めてしまう。「復興」キャンペーンによって全国民の関心が、被災地の復旧に注がれる。しかし被災者たちにとって、復旧という方針は必ずしも自明ではない。何人かは町を去り、何人かは町に残る。そして残った者たちが町を再建しようという結論にいたるのだとしても、そのまえに、それぞれの服喪と、葛藤と、思い惑う時間がある。
 私は感傷的な話をしたいのではない。物事の順序の話をしているのである。「復興」政策は、被災者たちが必要とするものよりも前に、まず政府の必要を満たすために実行されたということである。「一日も早い復旧」を望んでいたのは政府であって、それは、津波被災者と汚染被害者がそれぞれに立ち向かっていた課題とは乖離していたのである。
実際に「復興」政策によって復旧されたのは、津波被災地ではないし放射能汚染地域でもない。それは東京の都市機能災害を復旧させたにすぎない。東京の都市機能が「平常通り」に回復されることで、災害も公害事件も風化させられていく。人々が直面している本当の課題を無視して、公害隠しの「復興」政策がすすめられていったのである。




2015年8月4日火曜日

新書『現代暴力論』をいただきました。

栗原康くんから新著をいただきました。
ありがとう。






いま自宅に届いたところなので、まだ読んでません。
オビにある著者の写真がいい。イケメンです。

2015年8月2日日曜日

近況報告


1  東京で暮らしていた義理の弟の家族が、名古屋市の北部にある一宮市に引っ越してきた。
これまで会社に出していた異動願いがようやくとおって、名古屋支社の勤務となった。私から見て姪にあたる子は、震災の年にはまだ生まれたばかりだった。奥さんは娘の健康状態に気を使いながら、三田医院で検査を受けたり富山県で長期保養をしたり、いろいろと苦労してきたが、ようやく移住が実現した。
 一宮市は地元の食品が豊富にある。防護対策はかなりラクになるだろう。




2  遅い報告になってしまったが、山の手緑と東芝との労働争議は、勝利的に解決した。
3月に争議を開始して、5月に団体交渉決裂、その後ストをうち、6月に金銭による和解となった。
 今回の争議はもうひとつ決め手に欠ける、勝つか負けるかわからない争議だったが、職場にのりこんでストライキを打ち、力づくで押し切った。



3  「原発おことわり三重の会」が発行する会報『はまなつめ』に文章を寄稿。
「「復興」協力の是非についての問題提起」と題して、「復興」協力をしている市民団体を批判。東海地域の反原発運動にとって関係の深い「チェルノブイリ救援・中部」という団体が南相馬市でおこなっている活動を批判した。詳細は『はまなつめ』紙の次号(33号)を参照。
 ひさしぶりに運動の言葉で文章を書いて、自分の頭のなかも整理された。
 なぜ私は「復興」政策に反対するのか。
 「復興」政策は、公害隠しの政策だからである。
 こう書いて、驚いた。こんな単純な構図を提示するために、4年もの時間がかかってしまったのだ。
 自分では冷静なつもりでいたが、ずいぶん混乱していたのだ。



2015年5月30日土曜日

ひさびさにストライキ


 山の手緑の雇止めをめぐる労働争議で、会社と組合の団体交渉は暗礁にのりあげた状態。
 会社側代理人の弁護士が異常なボンクラなので、話が前に進まない。

 腹立たしいので一日だけストライキをうった。

 山の手緑と組合員3名で職場にはいり、ストライキを通告。そのまま事務所内に居座り、横断幕を掲げながら管理職と正社員を睨み続けてやった。
 所長はあたふたしていたが、それもこれも代理人弁護士が反共バブル世代のボンクラだからいけないのだ。

 やっぱ現場ストライキはいい。、少し気分がすっきりした。
 

2015年5月28日木曜日

魔女狩りについての考察



 魔女狩りについて考えるとき、まず我々の目を引くのは冤罪の多さである。
魔女裁判にかけられて虐殺された多くの人々が、実際には魔女ではなかったし、異端者でもなかった。善良で模範的な村人や敬虔なキリスト教信徒が、魔女狩りの犠牲になっている。その数は多い。我々はこの事実に驚き、つぎにその闇の深さを想像し、魔女狩りについて考えることをためらってしまう。そしてつい魔女狩りについて考えることをやめて、魔女について想いをめぐらしてしまう。その方が楽しいし、心を豊かにするものだからだ。
 魔女の豊かさに比べて、魔女狩りはみじめだ。魔女狩りについて考察することは、人間の卑しい歴史に向き合うことだ。


 魔女狩りを考えることは、告発の力学を考えることだ。その告発は真実ではない。嘘によって他人を陥れる誣告である。なぜ人々は、隣人を死に追いやるような誣告を行っていったのか。教会が魔女狩りを開始したとき、どのような人々が誣告を企てたのか。

 まず、魔女について考えてみよう。
現代の魔女研究の成果によって定説となりつつあるのは、「魔女」は農村の医療家であったという説である。私もこの説を支持する。
近代医学が登場する以前、農村の医療を担っていたのは、薬草の知識に通じた「魔女」であった。病院のない村で、村人たちの健康相談に応じる女性がいた。彼女は婦人病の相談に応える薬剤師であり、分娩を手伝う産婆であり、生まれた子の健康状態をみる小児科医であった。
 こうした医療行為自体、教会にとっては異端であった。なぜなら当時のキリスト教会は、人々の病の原因を「信仰の不足」と考えていたからである。教会が病人たちに要求したのは、より強く信仰することだった。農村の医療家たちの実践は、キリスト教の教義から逸脱していたのである。
 とはいえ、教会の神父が直接に「魔女」を摘発したとは考えにくい。「魔女」は農村の生活を支える重要な人物だったからである。あるいは、教会の神父がただひとりで「魔女」を断罪することは困難だっただろう。そこには村人たちの協力が必要であったはずだ。
 では、村のなかの誰が、どのような動機をもって、魔女狩りに協力したのか。
敬虔なキリスト教徒が、信仰の熱狂に突き動かされて、魔女狩りを推進したのだろうか。そうした例もあったかもしれない。しかしそうした図式だけでは、魔女狩りの規模を説明するのはむずかしい。おそらく問題の中心はそこにはない。魔女狩りを推し進めたもっとも大きな原動力は、村のなかでもあまり熱心ではない不信心な信徒たちである。
 教会は村人に告解をすすめる。しかし村人には、教会の神父には言えないような秘密がある。「魔女」はそうした秘密を知る人物だった。彼女は医療家として村人の健康相談にのっているから、各人のデリケートな秘密を知ることになる。どの男が性的不能であるとか、肛門愛好者であるとか、動物との性交にふけっているという秘密を知ることになる。村人の生活の実態が教会の教えとどれほど乖離しているかを、「魔女」は知っている。
もっとも広範に一般的に秘匿されていたのは、堕胎の秘密である。当時の教会は堕胎を重大な罪とみなしていた。しかし貧しい農村の現実は、堕胎を必要としていたのだ。
 教会の異端審問が拡大していったとき、ほんとうに恐怖で震えたのは、そうした秘密を抱える人々であっただろう。彼らは自分や自分の家族が摘発されるかもしれないという恐怖に駆られ、嘘の証言をしたのだ。魔女狩りを拡大させたのは、キリスト教への熱狂的な信仰ではない。教会の教えどおりには生きられない者たちが、信仰の見せかけをとりつくろうために、秘密を知る女を殺し、口を封じたのだ。

 こうして告発者の視点から問題を眺めてみると、魔女狩りのなかでなぜ敬虔なキリスト教徒が告発されていったのかが、すんなり理解できる。告発者を恐怖に陥れたのは魔女でも悪魔でもない。彼らにとって真に脅威であったのは、キリスト教であり、身近にいる熱心な信徒だったのだ。


 スラヴォイ・ジジェクが、スターリン主義について指摘するのは、もっとも熱心なスターリン主義者たちがスターリン体制の下で粛清されていったという事実である。スターリン体制は、トロツキー主義者を粛清するだけでなく、スターリン主義者も粛清していった。おそらくここで告発を推進したのは、人々の共産主義への熱狂ではない。共産主義を信じているふりをする必要に駆られた人々がいたのだ。

 資本主義社会の企業のなかで問題になるのは、「生産性」や「効率」や「能力」という指標の濫用である。職場のなかでもっとも無能な者が、無能ではないふりをするために、率先して「生産性」を号令するということはありうる。日本の企業社会はこれまで40年にわたって「生産性向上」を号令してきたが、言うほどに成果が上がっているかどうかは疑わしい。権力と嘘の力学を考慮するならば、もっとも有能な者が「無能」の烙印をおされて職場から排除されることは、充分にありうるのだ。

 異端審問についても、スターリン主義についても、生産性向上についても、それらの号令が額面どおりに貫徹されることはおそらくない。社会はもっと複雑で、立体的だ。権力は人間を服従させるが、それだけではない。権力は人間を腐敗させ、不義に満ちたやり方で抵抗を生む。



 現在の放射能汚染という事態にからめて言えば、私たちのような放射線防護派にたいして「放射脳」と罵倒する者がいたとして、私はそういう者たちを呪いつつ、ささやかな期待をしている。彼らは正々堂々としたやりかたではないが、陰湿で不義に満ちたやりかたではあるが、かならず「復興」政策に打撃を与えることになる。権力の嘘を民衆みずからが担うとき、服従はただ服従だけでは終わらない。嘘の矛先は乱反射して、権力に突き刺さり、社会を膠着状態に陥れるだろう。楽しみだ。


2015年5月23日土曜日

本の紹介『日本が”核のゴミ捨て場”になる日』



 『日本が”核のゴミ捨て場”になる日』 沢田嵐著  旬報社





 著者の沢田嵐さんは、東京赴任中に放射能汚染に巻き込まれ、いのちからがら名古屋に退避してきた人です。名古屋では市民測定所のボランティアスタッフに加わり、愛知県のがれき焼却受け入れ問題では、反対派として積極的に動いた人です。愛知県のがれき焼却反対運動は、たくさんの小さなグループが同時多発的に動いていましたが、そのなかでも計画中止に大きく貢献したのが沢田嵐さんたちのグループです。

 放射能がれき問題は、電力会社の廃炉(バックエンド)費用を左右する重大な焦点です。核のゴミをどれだけ安く処分できるかで、電力会社の存亡が決まります。震災がれき問題は、終わった話ではなく、はじまりにすぎません。
 というわけで、本書は必読です。
 図書館にリクエストしましょう。




2015年5月20日水曜日

橋下徹は何に敗れたか



 橋下市長が大阪市民に問うた「大阪都構想」住民投票は、途中から橋下市長の信任投票という性格にスライドしつつ、反対派が勝利した。「橋下市長はいらない」という大阪市民の意志が、僅差ではあるがまさったのだった。
やったね。
大阪市民のみなさん、おつかれさま。

 さて、選挙結果が確定した直後から、橋下信者の怨嗟の声が聞こえてくる。
橋下信者とは、表面的にはテレビに扇動された「改革教」信者であり「リーダーシップ教」信者であるのだが、その性根を支えているのは企業文化への盲目的追従である。
 橋下の言葉は、会社の会議室で交わされる言葉であり、その小児病的表現である。「小児病的」というのは、人間社会に対する洞察を欠いた幼稚な叫びであるという点で、それをいい年した大人がやっているという点で、病的なのである。

 まず普通に考えてみればわかることだが、「改革」や「リーダーシップ」というものは、あのように言葉にして叫ぶものではない。私は40年近く生きてきて人並みに社会経験があるので知っているのだが、組織を改革してしまう人たちは「よしこれから改革しよう」などとは言わない。組織の中でリーダーシップを発揮している人は、「リーダーシップ」という言葉を使わない。「改革」や「リーダーシップ」とは、それとして意識されないように黙ってやるものだ。改革者はまるで改革者ではないようにふるまいながら改革するし、仲間から信頼されているリーダーはまるでリーダーに見えないような仕方で集団を統率している。そうしなければうまくいかないからだ。現実の実践とはそういうものだ。
 「改革教」や「リーダーシップ教」の政治家たちが、人間的な深みのない浅薄な印象を与えるのは、彼らが言葉をあつかうための実践感覚を欠いているからだ。まるで「改革」という言葉をワードに打って印刷すれば人々がひれ伏すとでも思っているかのようだ。あるいは、指示書に「改革」と書いておけば、誰かが改革を実現してくれるだろうという甘えがある。
こうした横着な態度を育んできたのは、企業であり、会社員の文化である。会社員はただ書類に言葉を書き込むだけで仕事をしたつもりになっている。文脈を考えず無駄に繰り返される平板な言語感覚。その言葉は他人の心をつかむことがない。それは、自らの優越的地位に依拠して他人を断罪したり命令したりしているだけだから、人々を心から納得させることができない。人々がその言葉を受け入れたり、受け入れたふりをするのは、企業社会の脅しが通用する限りにおいてだ。
しかしそうした脅しは通用しなくなりつつある。非正規労働者の拡大=会社員の縮減によって、企業の文化は社会的重みをもたなくなっているからである。端的に言って、彼らの議論はイタいものになりつつある。

 大阪市民が示した橋下市長への不信任とは、企業文化が主導してきた改革リーダーシップ論議を、人々がシニカルな態度で退け、「王様は裸だ」と告げたものだといえる。いまや我々は、会社員たちとはまったく違うやりかたで言葉を交わす。それは2011年3月の放射能汚染によって決定的になった。あの日から、企業社会の文法と、民衆の文法は、決定的に分岐した。
 これからが楽しみだ。


2015年4月10日金曜日

淀川ジャンボリー

東京から大阪へ避難移住した友人から、イベントの誘いがあった。
その名も「淀川ジャンボリー」。

http://heyevent.com/event/737667909680697/

会場の新十三大橋は、十三駅から国道176号線を南に下ったところ。

時間があえば行きたいと思う。

2015年3月25日水曜日

娘の成績

 娘が修了式を終えて、成績通知表をもってきた。
 すべての科目で「4」と「5」が並ぶ。テストの成績も良い。


 これは当然の成り行きと言えるかもしれない。
 彼女は小学3年生の終わりに、生まれた土地から引き離された。放射能汚染からの退避というわけのわからない理由で引越しをさせられ、それは世間的には異常にみえる行動であって、彼女の生活はつねに論争の渦中にあった。
 無邪気な幼年期は、突然おわってしまった。
その日から彼女は、大人たちの言葉をそのまま信じるのでなく、言葉の繰り出される背景を慎重に吟味しなくてはならなくなった。学校やテレビに対して、批評的な態度でのぞまなくてはならなかった。彼女はまだ小学生だったのに、大人にならなければならなかったのだ。

しかたがない。
そういう事件が起きてしまったのだから。


 ともあれ、勉強ができることは悪いことではない。むしろ良い。


2015年3月18日水曜日

山の手緑の労働争議



 じっくりと絵を描いているはずだった山の手緑が、とつぜん労働争議に突入。

 彼女は現在、名古屋市内の事務所で有期契約で働いているのだが、今回の契約更新をもって最後の更新とする旨通告された。はじめの契約の時点では「1、2年ではこまる、3年間は働いて欲しい」と言われていたのだが、新しく交代した管理職はその約束を反故にしてしまったわけだ。契約を更新しない理由は書類には記載されていない。ただ口頭で「仕事を任せられない」と言われたのみである。

 ここで彼女が怒っているのは、言うに事欠いて「仕事を任せられない」とはなにごとか、「仕事を任せられない」のはどっちなんだ、ということである。
 彼女は学校を出たばかりの新人ではない。事務職の経験を重ねてきたベテランで、しかも、いくつもの職種の事業所を渡り歩いてきた人間だから、仕事をわかっている人間とそうでない人間を見分けることはできる。彼女の仕事ぶりを一方的に評価して、ただですまされるわけがない。評価する者が本当に他人を評価する資格と実力をもっているのかどうか、これから団体交渉を通じて事実確認をする。誰もやりたくない複雑な仕事を派遣や契約社員に押し付けて、うまくいかなかった責任を他人に転嫁して自分たちの和を保とうとする、正社員たちの反労働者的態度を暴露していく。

 これから山の手緑の逆襲が始まる。
 楽しみだ。


2015年3月16日月曜日

バタイユ『ヒロシマの人々の物語』

ジョルジュ・バタイユ著  酒井健訳 『ヒロシマの人々の物語』(景文館書店)





 これは1947年に『クリティック』誌に掲載された短いエッセーですが、さすがバタイユ。深いです。


このテキストについて、今月末に読書会をやりたいと思います。
読んでおいてください。


2015年3月10日火曜日

ランディ・マタンのインタビュー


昨年の暮れ、フランスのウェブサイト”ランディ・マタン”のインタビューに応じたものが、翻訳されてアップされた。収録場所は、タルナック村の図書室。

https://lundi.am/Partir-de-Tokyo

長いインタビューを翻訳してくれたフランスの友人たちに感謝。




追記

 あと、拙著『3・12の思想』について、フランス語で書評を書いてくれた方がいるようです。

http://gc.revues.org/2922

評者は Christophe Thouny さん。
どなたか知りませんが、ありがとうございます。

2015年3月8日日曜日

放射能汚染と視覚表現



 私の盟友である山の手緑が、絵かきとしての活動を再開する。
彼女はめったに絵を描かない人なのだが、名古屋で一年暮らし、「風景の死滅」を体感し、これはもう描かなければ次に進めない、と確信したらしい。そのモチーフとコンセプトはまだ明かすことはできないが、かなり野心的だ。どんな作品がでてくるのか、いまから楽しみだ。

 さて、視覚表現の陳腐化について。
 それが始まったのは原子力発電所が爆発する以前だったのか以後だったのか、正確には言えない。ただ、原子力発電所の爆発によって、その傾向が明白になったということは確かだ。
 デジタルカメラとインターネットの普及によって、視覚表現はとても手軽になった。同時に、視覚表現は過剰になり陳腐化した。
 例えば、写真つきのブログというものは、登場した当時は画期的だと思われたのだが、しだいにありふれたものになり、いまではちょっとダサいものになった。いや、最新技術というものはつねに陳腐化の脅威にさらされているのだから、写真つきブログの衰退はそのレベルの話にすぎない、と言うかもしれない。うん。たしかにそうなのだが、ここで問題にしたいのはそこではない。インターネットにおける視覚表現の陳腐化は、たんに表面的な手法が飽きられたということにとどまらない、もう少し深い地層の変動と結びついていると思われるからだ。
 インターネットを離れてもうひとつ例を挙げると、「ゆるキャラ」ブームというのがある。いまはもう流行っていないのかもしれないが、全国の自治体がオリジナルのキャラクターをつくって、イラストや着ぐるみで地域のPR活動に利用したものだ。このブームが示したのは、視覚的な表現はそれ自体で自律してしまうことがありうるということだ。つまり、伝える表現方法と伝えるべき内容とが分離してしまって、ひどい場合にはアピールする内容も理由もないのにキャラクターをつくってしまうという、よくわからない現象が起きてしまったのだ。
 視覚表現に訴えなければ伝わらない、しかし、視覚表現があることで伝えるべき内容が失われてしまう。そんな矛盾した事態がうまれている。

 2011年の3月に起きたことを振り返ってみよう。
私たちは、東日本沿岸部の町が津波に呑み込まれる映像を見て、原子力発電所が爆発する映像を見た。このとき報道は極端に視覚的になり、そうすることで、破局的な事態がおきていることを世界に伝えた。同時にそのときから目に見えない汚染は始まっていた。人々が津波と爆発の映像を凝視しているあいだに、視覚的に伝えることのできない放射性物質が東日本に降り注いでいった。私たちは視覚表現の過剰のなかで、見えるものを見ているだけでは充分でないという状況に置かれたのである。

 その後、伝えるべき内容を欠いたままに、視覚表現が勝利する。
福島県の美しい風景。汚染された土地のおいしい食材。その土地で懸命に生きる人々。
あるいは、原子力政策に反対する数万人のデモンストレーション。汚染された街で抗議の声をあげる人々。
 放射性物質が目に見えないものだということは、誰もが知っていた。しかし報道機関は、不可視であるものを伝える努力よりも、可視的なものをてっとりばやく伝えることを優先した。カメラを持ち込める場所でカメラの前にたつ人々を映し、カメラに映すことのできない人々を映さなかった。彼らジャーナリストはこう釈明するかもしれない。ニュースの受け手はつねに視覚的な表現を求めているのだ、と。そう。それもまた事実だ。人々は視覚表現に飢えていて、なんでもかんでも写真を要求する幼児退行に陥っている。たしかにそれはそうかもしれない。
 しかし、こうも言える。
人々はむさぼるように写真を眺めつつ、この視覚表現の勝利によって、伝えられるべきもっとも重要な内容が失われていることを知ってもいる。見えるものだけに目を奪われていてはいけないということを、なかば自覚している。放射能汚染はそのような教育効果をもたらしたのだ。
 2011年の事件以後、見えるものをただ信じるという素朴な態度は終わった。
私たちは以前よりもずっとシニカルで、批評的になった。


2015年3月3日火曜日

汚染後4年間の中間総括

 フランスで出版される論集に向けて、原稿(第一校)を出した。

 外国人に向けて放射能汚染後の日本社会の状況を説明するという作業は、自分自身にとっても有益だった。この作業は結果として、この4年間の論点を整理する作業になった。
 この論集は、まずフランス語での出版が決まっていて、その後に英語版への翻訳が検討されているが、日本語での出版は予定されていない。ということで、私が書いた文章をここで公開してしまっても問題はないと思う。

 私がここで行った問題の整理は、ある種の人々にとっては承服できないものであるだろう。
しかし、誰が承服しようがしまいが、ここに書かれた内容がのちの定説になる。
ここから次の議論を始めよう。

以下、本文。


-----------------

(タイトル未定)

矢部史郎

 2011年3月12日、東京電力・福島第一原子力発電所で核燃料のメルトダウンが始まった。6基ある原子炉のうち4基の原子炉が放射性物質を大気に放出した。このとき大気中に放出された放射性物質は、ヨウ素1311.5×1017乗(150000000000000000)ベクレル、セシウム1371.2×1016乗(12000000000000000)ベクレル。2015年現在も放出は継続しており、現在も1日あたり24千万ベクレルが放出されている。(以下、本稿では大気を通じた汚染についてのみ論じるが、海洋への汚染はもっとおおきく、現在も継続中である。)

 福島事件について書くべきことはたくさんあるが、本稿ではこの事件の5つの特徴を述べることで今起きている事態を説明したいと思う。
 5つの特徴とは以下のものである。
1、巨大都市を包み込む汚染
2、大震災と放射能汚染
3、「復興」政策
4、市民による汚染調査
5、主婦たちの抵抗

1、巨大都市を包み込む汚染
 まず政府が公表した汚染地図を見てほしい(図1)。これは航空機からガンマ線を計測する方法で作成した汚染地図である。大気中に放出された放射性物質は、多くが太平洋に向かったとされているが、それでも広範囲に及ぶ陸地が汚染されることになった。
 日本政府は爆発後に住民の強制退避措置を行っているが、その範囲は爆心地から●km圏内の地域にとどまっている。●km圏より外の地域では、住民の退避措置がまったく取られていない。爆心地に隣接するいわき市(34万人)、福島市(29万人)、北方100kmに位置する仙台市(104万人)などは、汚染された状態にあるにもかかわらず、住民が留め置かれてしまっている。
 しかし問題は100キロ圏だけにとどまらない。この地図では空白となっているが、実際には爆心地から南西300キロの地点でも汚染が確認されている。
 政府発表とは別に、日本の消費者が参照している汚染地図を図2に示す。
非常におおまかであるが、これが実態である。東日本のほとんどの地域で土壌汚染が確認され、消費者はこの地域の農産物に警戒を強めているのである。
 最大の問題は東京圏の汚染被害である。東京圏は、東京都と周辺四県にまたがる巨大都市であり、その人口は約3600万人にのぼる。この世界でもまれな巨大都市は、日本の総人口の約30%を抱えているのである。これだけ大きな人口に対して退避措置をとるということは、政府だけでなく誰もが躊躇することであるだろう。私は事件の直後からずっと東京からの住民の退避を訴えているが、多くの人々はそれを非現実的な提案であると受け止めている。
 東京圏の3600万人、汚染被害地域全体では4500万人が、放射能汚染の脅威に直面した。汚染地域からいちはやく退避した者も少なくない。しかし、ほとんどの住民はいまも汚染された土地に暮らし続けている。ここから、放射能汚染をめぐるさまざまな議論が生まれる。放射能汚染による人体への影響はないとする荒唐無稽な安全論から、東日本は壊滅するだろうという悲観的な予測まで、さまざまな主張が交わされた。それらのすべてを列挙するには紙数が足りない。ただこれらの議論を見る際にその前提として認識されるべきは、今次の放射能汚染が呑み込んだ人口の大きさである。私たち日本に暮らす者にとって、これは局地的な公害事件ではない。日本社会全体を巻き込む巨大な公害事件である。だからこそ、おそろしく非科学的な主張や、荒唐無稽な安全論、通常では考えられないような迷信や精神主義が噴出することになったのである。


2、大震災と放射能汚染
 放射能汚染対策について我々の議論を複雑にし、膠着させてもいるのは、今次の大規模汚染事件が巨大な自然災害と同時に発生したことにある。
この二つの出来事をそれぞれの日付で呼ぶならば、「3・11」と「3・12」である。
3月11日、巨大地震と巨大津波が東日本の都市を破壊した。そして3月12日、被災地をはるかに超える広大な領域に放射性物質が降り注いだ。われわれは被災地の災害復旧と、汚染地からの住民退避という、二つの切迫した要請を同時に抱えることになった。この二つの要請は両立不可能である。「3・11」に対応する行動か、「3・12」に対応する行動か、どちらかを選ばなくてはならない。
 日本政府は「3・12」への対応を切り捨て、「3・11」にのみ対応することを宣言した。それが「復興」(ルネサンス)政策である。

3、「復興」政策
 日本政府は、放射能汚染事件の直後から、「復興」(ルネサンス)政策を号令している。政府も民衆も力を合わせて、国民全体で東日本の「復興」に力を注ごうと言ったのだ。
 日本では、「復興」という言葉は、特別な重みを持っている。「復興」は、たんに被害を受ける前の状態に復旧するという意味ではない。被害を受ける以前よりも大きく発展させ飛躍するという意味である。
 「復興」という言葉がはじめて使われるのは1923年の関東大震災後である。次に使われるのは1945年。米軍による戦略爆撃によって日本の重要都市はすべて焦土となる。日本人はその焼け跡からもういちど都市を再建し、以前よりもはるかに近代的な都市へと発展させたのである。このことはたんに歴史であるという以上の意味を持つ。「復興」は、日本の保守政治を支えてきたレゾンデートルである。
 第二次大戦後、日本の都市は飛躍的に成長する。そのなかでも特に参照されるべきは、広島市の「復興」である。原子爆弾を投下された直後、放射能汚染地帯となった広島市は、もう二度と人間が暮らすことはできないだろうと考えられていた。日本政府は広島市に対して特別な都市計画法を策定し、開発資金を投下し、「復興」を実現させた。これは奇跡の伝説として伝えられている。もちろんこの「復興」の舞台裏では、無数の流血があった。放射性物質による人体汚染は多くの死病者を出した。広島市から離散していった者も少なくない。政府はそうした被害の数々を否認したりうやむやにすることによって、広島市の「復興」を強引に推し進めていったのである。
 今次の放射能汚染に対して、政府はさらに大規模な「復興」政策によって事態を乗り切ろうとしている。
 現在の福島県では、おおきくわけて3つの「復興」事業がすすめられている。
a)除染事業
 福島県では汚染された家屋や道路を洗浄し、表土を剥ぎ取る作業が行われている。このことで空間放射線量はわずかに下がる。しかし法令で定められた安全基準まで回復することはない。これは、チェルノブイリ事件後のウクライナでも試みられ、最終的に意味がないとされた対策である。この事業に政府は一兆一千億円の予算を準備している。除染事業の唯一の効果は、住民を汚染地域に留めおくことであり、自主避難していった人々を汚染地域に呼び戻すことである。
b)汚染食品の流通
 政府と福島県がもっとも早くに取り組んだのは、汚染地域の農産物を流通させることであった。今回の事件は、チェルノブイリ事件に次ぐ二度目の大規模汚染であり、汚染食品の危険性はひろく一般に知られていた。そのため、日本の消費者は事件直後から汚染地域の食品を買い控えた。こうした消費者の動きにたいして、政府はこれを「風評被害」と呼び、科学的な根拠のない不当な防護策であると断罪した。福島県は断片的で不充分な食品検査を行って「安全宣言」を出し、汚染食品を全国に流通させていった。政府とマスメディアは、福島産の食品を食べることが「復興」への協力なのだというキャンペーンを展開したのである。
c)児童の甲状腺検査
 日本ではチェルノブイリ事件の健康被害が広く知られている。なかでも、児童の甲状腺がんはよく知られていた。そのため福島県は県内の児童すべてに甲状腺エコー検査を実施している。検査結果に付けられた医学者のコメントは、「放射線被曝との因果関係は認められない」というものだ。日本の医学者たちは、放射線の健康リスクを調査し住民に説明するという体裁で、今後ありうる被害予測を否認し、住民を汚染地域に留めおくという政策をとったのである。
 
 以上三つの事業を総括するならば、「復興」(ルネサンス)政策とはまず第一に、放射能汚染を住民にうけいれさせる政策である。汚染された地域に住民を留めおき、汚染された食品を食べさせることが、福島「復興」のための第一の条件になるからである。
 とはいえ、現在の高度情報化社会のなかで、人々は福島第一原発の爆発と汚染がどれほど破局的な事態であるかを知っている。また、チェルノブイリ事件によって得られたさまざまな知見と必要な防護策がひろく知られている。政府はこうした一般的な知識を隠すことができないし、正面から論争を仕掛けて論破することもできない。したがって、「復興」政策の主要な作戦領域は、メディア産業を通じた嘘と印象操作になる。
 汚染に対して警戒を強める住民に対して、政府はその場しのぎの嘘を繰り返してきた。「福島第一原発の事故は収束した」「福島の農産物は安全である」「甲状腺がん罹患者の増加は放射線被曝が原因ではない」等々。こうした嘘の発表は、ほとんど批判されることなくまかり通ってきた。これらの嘘を補完してきたのは、「復興」政策が唯一の現実的な解決策であるとする印象操作だ。日本のマスメディアは、「復興」政策によってどれだけの住民が被曝を強いられたかを報じない。住民の被曝は避けることのできない自然災害のように扱われ、「復興」政策がもたらした被曝被害は検証されたことがない。そして、汚染を避けるために移住する人々や、汚染食品の不買をする行為は、「復興」を阻む障害として、克服されるべき悪習のように描き出されてきたのである。
メディア時代の原子力災害は、スペクタクルの災害となってあらわれたのである。

4、市民による汚染調査

 日本政府による住民への統制は、まず放射性プルームの拡散状況を隠すことから始まった。政府は風向や風速などの気象条件から汚染の拡散を予測するSPEEDIという装置を保有していたが、この装置による予測を住民に知らせることはなかった。住民は自ら空間線量計を入手して、自分のいる場所の汚染を計測しなければならなかった。この日から約1年間、政府と住民のあいだで放射線測定をめぐる闘争が始まる。

・空間線量調査をめぐる闘争
 汚染事故の直後から、住民はガイガーカウンターを入手し、自分の暮らす地域で自主計測活動を始めていった。計測された数値は、直後にツイッターやSNSに公開され、ウェブ上で情報が共有されていった。爆心地から220キロ離れている東京圏でも、深刻な汚染があることが明るみになる。市民による計測活動が徐々に拡がっていく。このとき、放射線防護対策の最初のイニシアティブを住民たちが手にした。
 行政による空間線量調査は、あまりにもずさんだった。1300万人の人口を抱える東京都は、たった一箇所のモニタリングポストしか持たず、その数値を発表することで事足れりとしていたのである。住民による自主計測活動は、行政の粗雑さの対極にある繊細さを発揮しておこなわれた。細かくまだらに堆積した汚染状態を把握するためには、丁寧に時間をかけて土地を調べなくてはならない。住民たちは、数箇所のサンプリング調査で満足することはない。彼女たちはひとつの公園について、何箇所も執拗に測り続けた。彼女たちはそこで生活している子供たちの歩幅で、汚染状態を調査していったのである。
 住民による計測活動が始まると、自民党の右翼議員はそれをやめさせるべきだと言って非難した。しかし政府は、住民の計測活動を強権的に禁止することはできなかった。かわりに、測定の基準に介入することで、被曝線量を過小に評価するように働きかけた。そのからくりはこうだ。
 空間線量率を計測するための簡易計測器には、2種類の方式があった。ガイガーカウンターとシンチレーションサーベイメータである。ガイガーカウンターは放射性核種が放出するβ線とγ線を検出する。シンチレーションサーベイメータはβ線を検出せず、γ線だけを検出する。したがって、シンチレーションサーベイメータが示す数値は、ガイガーカウンターの示す数値よりも小さくなるのである。政府は行政機関の計測機材をシンチレーションサーベイメータに統一し、ガイガーカウンターの使用を排除した。このことで、ガイガーカウンターで計測した数値は信用できないという印象がつくられてしまった。さらに国内の企業が低価格のシンチレーションサーベイメータを発売したことで、この印象はさらに強まった。日本では、空間中のγ線だけを計測しβ線は無視するという特殊な方法が普及していった。実際には人体にβ線を浴びていても、日本ではまったく考慮されない。多くの人々はセシウムがβ線を放出しているという事実を忘れてしまったかのようだ。日本政府は、計測方法の基準に介入することで、外部被曝線量の過小評価を行ったのである。


 食品の汚染測定
 事故から半年後、核種分析器(シンチレーションスペクトロメータ)が入手できるようになった。農家や流通業者が食品測定を開始し、それとは別に、日本各地で市民測定所が作られていった。ここでも市民が強いイニシアティブを発揮した。最初の1年間、政府は食品のクリアランス基準を500Bq/kgとしていたが、市民の強い抗議と市民測定所の実践によって、クリアランス基準の変更(100Bq/kg)をよぎなくされた。
 放射線防護対策に取り組む人々は当初、この装置に大きな期待をかけた。政府が測定しないものを、自ら測定し告発することができるからである。しかし、測定作業を自ら実践するなかで、人々は徐々にこの装置の限界を知ることになった。
 問題は三つある。
a)核種の制限による隠蔽効果
 一般的に手に入る安価な核種分析器(シンチレーション方式)は、三種類の核種しか検出できない。セシウム137、セシウム134、ヨウ素131、である。食品の汚染を測定するためには、これでは足りない。
 汚染地域の農産物は、土壌からカリウムを吸収する過程で、セシウムを吸収する。カリウムとセシウムは同じアルカリ金属だから、植物がカリウムを吸収する過程にセシウムが混入してしまうのである。栽培農家は、農産物にセシウムを混入させないために、土壌にカリウム肥料を大量に投与する。土壌中にあるカリウムとセシウムの比率を変えてしまえば、セシウムの混入を抑えることができるのである。
 こうなると、セシウムの数値を指標とする汚染調査は、役に立たなくなってしまう。セシウムの背後に隠れているストロンチウムなどの核種を推量することができなくなってしまうのである。

b)精度不足
 安価な核種分析器は、検出限界が高い。検出限界とは、レンズの倍率に相当するものだと考えてもらってよい。市民測定所が入手した機材では、どれだけ時間をかけて測定しても、5Bq/kgまでしか調べることができない。それよりも低い濃度の汚染は検出することができないのである。この精度を基準にして、人体への安全性を評価することはできない。現在使用されている測定機材は、顕微鏡で調べるべき対象をルーペで覗いているようなものなのである。

c)サンプリング調査の方法的問題
 最大の問題は、サンプリングという方法が役に立たないことである。
 土壌汚染はけっして均質ではない。このことは空間線量の調査をしたときにいやというほど思い知らされた。最初にフォールアウトした時点から、汚染物質は細かいまだら状に分布している。降下した汚染物質は大気や水の流れにのって移動し、分散と集積の特異点を形成していく。汚染された土壌の平面は、疎と密が激しく波打つ特異点の連続なのである。
 だからサンプルを採取する場所をたった1mずらしただけで、汚染濃度が大きく違ってしまうということがある。こうなると、あるサンプルから得られた数値がその周囲にあるどれだけのものを代表できるのか、という問題になる。
ここで私たちは、サンプリング調査という方法の限界にぶつかったのだ。

 測定機材と方法の限界は、検査結果の解釈をめぐる議論を引き起こした。
 そもそも食品汚染の測定は、はじめから二つの相反する要求を同居させていた。ひとつは汚染食品を避けたいという消費者の要求であり、もうひとつは安全性を確認して食品を流通させたいという流通業者の要求である。
 市民測定所による調査は、汚染地域の輪郭と危険性の高い品目を徐々に明らかにしていった。一年後には、消費者は生産地と品目を不買の判断の基準にするようになった。つまり、精度の足りない検査結果に頼るのではなく、予防原則に基づく防護策をとったのである。
 これにたいして流通業者たちは、簡易的な核種分析器の検出限界を事実上のクリアランス基準とみなすようになった。彼らは汚染地域の農産物を検査し、「不検出だから食べられます」と言ったのである。
 検査の解釈をめぐる論争は、「復興」政策のスペクタクル的性格を如実に表現するものだ。スペクタクルの詐術は、単純に隠すことではない。隠すことによって隠すだけでなく、見せることによって隠すのである。「復興」政策の協力者たちは、汚染調査を拒否しない。かわりに、断片的で不充分な調査結果をこれみよがしに示すことで、「安全」な印象を人々に与えるのである。


5、主婦たちの抵抗
 大規模放射能汚染は、日本社会のすべてを混乱の淵においやった。政府、政党、農業団体、漁業団体、労働組合、生活協同組合、科学者、ジャーナリスト、反核運動団体、人権団体。この事態をまえに無傷であったものはいない。すべてが混乱し、機能不全に陥った。
 混乱の中で、原子力政策に対する反対運動は、大規模で力強いものに成長した。しかしそれは、放射能汚染にたいする「運動」の無力さを糊塗するものでしかなかった。彼らは原発の再稼働に反対することはできたが、放射線防護措置を要求することができなかったし、実践することもなかったのである。
 汚染問題にたいして、もっとも非妥協的に対決したのは、左翼政党でも運動団体でもなく、なににも組織されていない主婦たちであった。彼女たちは汚染を調査・告発し、汚染地域から移住し、汚染食品の流通と汚染廃棄物の拡散に抵抗した。多くの左翼が「復興」政策との対決を躊躇しているあいだに、主婦たちは「復興」政策を阻止する直接的な実践に向かっていった。彼女たちはアナキストではないが、誰よりもアナーキーであった。彼女たちはシチュアシオニストではないが、スペクタクルの嘘を精確に告発していった。そして彼女たちは、どれだけひどい非難や中傷を浴びても、まったく妥協することがなかった。
 なぜ主婦たちが強い抵抗をみせたのか。4つの理由を挙げておきたい。

a)知性
放射線防護対策の具体的な実践は、炊事・掃除・洗濯・育児といった家事の領域での作業である。主婦は日常的に家事を担っているから、こうした作業の実際をよく知っているということがある。
主婦は毎日毎日倦むことなく(あるいは倦みながら)食事をつくり、家族の栄養管理を行っている。だから、微小な物質の蓄積が人間を活かしたり殺したりすることを知っている。放射性物質は目に見えないモノだが、これも主婦にとってはとりたてて珍しい話ではない。細菌、ウイルス、食品添加物、農薬、アレルギー原因物質、組み換え遺伝子、紫外線等々、目に見えないモノなど生活のなかにはいくらでもある。もしも「目に見えないから対処できない」とサジをなげてしまうなら、乳幼児の健康管理などとうていできないだろう。

b)責任意識
 主婦は、望むと望まざるにかかわらず、家族の健康に責任を負っている。あるいは、責任を押し付けられている。家族の誰かが病に倒れたとき、あるいは介護が必要になったとき、その作業を担うのは主婦である。主婦とは、家族に不測の事態が起きたときに、その尻拭いのアンペイドワークを予約指名されている者である。
被曝医療の「専門家」あるいはICRPWHOが、放射線による健康被害は「少ない」と予測するとき、その「少ない」患者の世話を彼らが責任を持って担うことは想定されていない。その被害の結果については、患者の家族の誰かが付き添い無償で働くことを予め前提にしているのである。実際に患者が多かろうと少なかろうと、彼ら「専門家」が看護に忙殺されることはない。悲しみもなければ自責の念もない。彼らは「リスク」という言葉を好んで使うが、リスクを引き受けるのは自分以外の誰かだろうとあてにしているから、あんなにヘラヘラした態度をとれるのだ。
 主婦は、家族に何かがあったとき一切を引き受ける者である。彼女は危機を吸収する緩衝材であり、モノにたとえるなら自動車のバンパーである。彼女は、たとえ自分の責任でないことであっても、自責の念を抱きつつ無償で働くことを強いられるのである。この負荷が、主婦たちを防護対策に駆り立てている。

c)差別
主婦は差別に慣れている。これは差別を容認しているというのとは違う。差別を知っているということだ。他人から馬鹿にされたり見くびられたりすることは、主婦にとっては日常である。家族から馬鹿にされることも、傷つくことではあるが、それほど驚きはない。老練な主婦から見れば想定の範囲内だ。
今回の事件で、主婦に対する差別意識をもっとも体現していたのは、広告産業である。もともと主婦は消費者として広告に慣れ親しんできた。美顔、デトックス、アンチエイジングなどの健康・美容情報を発信してきたのは広告会社であり、主婦はその情報を身近において利用してきたのである。その広告会社がある日突然、放射能を怖れず受忍せよ、と言いだしたのだ。これはあまりにも極端な手のひら返しであり、広告という事業の差別的性格を剥き出しにした瞬間であった。広告会社のアドバイスに従うなら、世の女性たちは紫外線についてぬかりなく警戒しなければならないが、放射線については受忍しなければならない、ということなのだ。これほど人を馬鹿にした話があるだろうか。
差別された者は差別する者を信用しない。主婦は差別を知っていて、すぐにばれるような嘘をぬけぬけという人間を見慣れてもいるから、どういう人間を信用してはいけないかを知っている。放射能問題のさまざまな論争の過程で、政府や「専門家」の言説が次々に無効化されてきたのは、主婦が誰の言葉も信じないからである。彼女たちがもつ「人を信じない」というハビトゥスは、さまざまな議論の重しとなり、盾となり、人々の混乱する意識に指標を与えてきた。

d)時間感覚
再生産(労働力の再生産)に携わる者は、意識する時間の射程が長い。賃労働というものが基本的にその場限りの契約であり、商品経済の短期的な売買の一部にすぎないのに対して、再生産に関わる労働はきわめて長期にわたる生活経済のなかに埋め込まれている。一人の子どもを出産し、育て、一人前にするまで、20年前後の時間がかかる。引退した老人の世話をして送りだすまで、やはり育児と同じだけの時間がかかる。再生産労働は、もう嫌になったと心変わりをしても簡単にやめることができず、長期間にわたって関わり続けなければならない労働なのである。賃労働者が時間のないユートピアを生きて時間感覚を喪失してしまっているのに対して、主婦は時間のなかに生きて時間を対象化している。
10年後か15年後かに顕在化するだろう晩発性障害は、時間を忘れた鶏のような意識にとってはまったく見当のつかない話だろう。「そんな先の話は考えてもしょうがない」と。しかし、主婦にとって15年後というのは、充分に手の届く未来なのである。

 以上にあげた4つの理由は、誰にもとっても理解しやすい表面的なものである。
以上を示すことで私は、主婦の活動に向けられた誤解に基づく中傷を退けておきたい。
例えば、主婦たちの防護活動は母性主義に貫かれている、というもの。そんな一面的な話ではない。もし彼女がたんなる母性主義者であったなら、汚染による健康被害の尻拭いを甘んじて受け入れただろう。彼女は我が子を思う母性的な意識を保持しつつ、同時に、余計な手間を押し付けられたくないという反母性主義の意志を保持している。
例えば、彼女たちの要求は生活保守主義(NIMBY)である、というもの。これも違う。汚染地域からの退避とは、自らの生活基盤を放棄することを意味する。東京電力からのなんの補償もないにもかかわらず、彼女は移住を決断し実行する。それはたんに生活を保守するためだけに行われるのではなく、この社会の不正にたいして強い怒りをもつからである。
 偏見や決め付けではなく、単純な事実を見るべきだ。主婦は、たんなる理想主義者でもなければ、たんなる現実主義者でもない。その二つを同居させるキマイラである。
今回の放射能汚染に直面するずっと以前から、主婦はキマイラとして生きてきた。彼女は産業社会の一画で賃労働を担いながら、同時に、再生産(無賃)労働の担い手でもあった。彼女は育児を担う大人として社会的責務を負いつつ、同時に、社会からは子供のようにあしらわれ重要な決定から排除されてきた。彼女は誰にでもできるだろうと考えられているもっとも素朴な家事労働を担いつつ、そのなかで、産業社会が生み出した未知の物質と環境問題に対峙しなければならなかった。
 2011年の夏、日本各地で市民による放射線計測が行われた。専門教育を受けたことなどない素人たちが、ガイガーカウンターで放射線量を計測し、スマートフォンでその数値を交換していった。彼女は片手に放射線検出器を接続し、片手に最新の情報通信機器を接続し、サイボーグの身体を獲得した。高度情報化社会の原子力事故という前例のない事態のなかで、まったく前例のないサイボーグが生まれた。我々はその異形の姿に驚きつつ、同時に、そのことがまったく不思議ではないものに思われたのだ。
 彼女が誰よりも大胆にサイボーグの身体を獲得していったのは、そもそも主婦というものがキマイラ的性格をもっていたからである。彼女はふたつの異なる領域を結合させ、混ぜ合わせる。先端科学と伝統的生活、公的なものと私的なもの、シニシズムとヒューマニズム、便宜主義と原則主義、政治と反政治。その意識は保守的であり、同時に、転覆的である。彼女は、いや、もう「彼女」と言うのはやめよう。女たちも男たちも、自らのうちに眠っていたキマイラを覚醒させた。キマイラは、資本主義が依拠してきた分業社会の外側にあって、その解剖学的な分節化の規則を無効にするのである。
 その意識は、日本社会の全体から見ればまだまだ少数ではある。しかし、この社会が飼いならすことのできないもっとも困難な敵として、それはあらわれたのだ。