原発事故の賠償請求訴訟に支援者としてかかわって、5年ほどたつ。
全国に30ほどある賠償請求訴訟のなかでも、名古屋の訴訟団はとくに明解な運動方針を打ち出し、注目を集めている。しかし、裁判闘争への支持がひろく集まっているかというと、まだ端緒についたばかりという段階だ。
原発問題について人々は積極的に関わろうとはしない。事故から12年たって問題が風化したから、というのではない。争点が複雑で理解が難しい、というわけでもない。争点はむしろ単純で、説明する余地がないほどだ。
ではなぜ人々は原発問題に触れようとしないのか。問題は、政治やイデオロギーよりも深い地層にあって、これを理解するには社会学的な分析を必要とするだろう。あるいは、精神分析を援用した「分裂分析」(ガタリ)のような手法が必要になるのかもしれない。おそらく現在の日本社会を覆っているのは、複雑な政治対立ではなく、対立の不全である。
2011年3月から現在まで、日本は原子力緊急事態宣言下にある。原子力緊急事態宣言下では、原子力基本法は死文化している。原子力基本法では、一般公衆の放射線被ばくは禁止されているが、緊急事態宣言下では公衆の被ばく受忍が容認され、推奨されてもいる。政府は年間20mSV未満の放射線被ばくを認め、重汚染地域への住民帰還政策を進めている。また、1kgあたり100Bq未満の汚染食品は流通可能になっていて、これを拒否すると「風評加害だ」といって論難されるのである。
こうした被ばく受忍の基準(実際には基準なき被ばく放任だが)について、国会で議論されたことは一度もない。政府は被ばく防護を被ばく受忍へと書き換える、決定的な方針転換をしたのだが、国会でこれが議論されたことは一度もない。すべては内閣府の権限で、一方的に、上意下達に、被ばく受忍の政令が発せられているのである。緊急事態宣言下では、これは「合法」となっている。そして内閣府が宣言を解除するまで、「緊急事態」が続くのである。
自民党政権の安保政策を批判する集会に行って、この話題をふってみるといい。驚くほど無反応である。安保の「緊急事態条項」の違憲性について精密に論じている人々であっても、原子力緊急事態宣言の違憲性については、口ごもる。「緊急事態」と称した行政権力の暴走を批判するにあたって、原発問題はこれ以上ない事例だと思うのだが、人々はなぜかこの問題を避けようとするのである。
問題は、この緊急事態宣言が福島「復興」政策と一体であるということだ。福島「復興」は、被害地住民と全国民の被ばく受忍を前提に組み立てられている。原子力緊急事態宣言を解除してしまうと、福島「復興」というプランは根本から再検討する必要に迫られることになるのだ。
2012年、民主党・野田政権が号令した福島「復興」政策は、問題だらけである。
問題点を三つあげる。
問題の第一は、放射性物質を蓄えた福島第一原発の封じ込めが完了しないまま、福島「復興」という目標を掲げたことである。事故から12年たった現在も、福一の封じ込めはできていない。汚染地域の除染作業をおこなっても、再び福一の崩壊が起きれば元の木阿弥である。
第二に、「復興」事業の達成期限がない。何年までに復旧を完了させ、事故前の生活に戻るというゴールが、まったく示されていないのである。だから、事故から12年たった現在でも「復興は途半ば」という状態で、今後おそらく数十年は「途半ば」を言い続けることになる。
第三に、最大の問題は、「復興」事業の責任主体が限定されていないことである。放射能汚染を被った地域を元の状態に復旧させるというのは、非常に危険で困難な作業なのだが、政府はこれを東京電力ではなく被害住民にやらせてしまっている。また、全国から復興ボランティアを動員し、あたかも国民全体が福島復興の主体であるかのような構図をつくりあげてしまった。野田政権は、災害復旧に取り組んできたボランティア活動の手法を、原子力公害の復旧作業にも援用したのである。それがもたらした効果は、復旧への寄与ではなく、復旧の責任主体を曖昧にすることであった。全国民が福島再生に取り組むという美しい物語によって、政府と東京電力の責任は曖昧にされ、誰も彼もが無責任になってしまった。結局、土地を離れることのできない被害住民だけが、いつ完了するかわからない「復興」にむけた自助努力を強いられているのである。被害住民は12年もの間、がんばろうがんばろうと応援され続け、危険で無謀な試みを引き受けさせられてきたのだ。東京電力の不始末の尻拭いを被害住民にやらせることが、美談になったのだ。本末転倒な話だ。
話を冒頭に戻そう。安保法制の緊急事態条項に鋭く反応する反戦派(あるいはリベラル)の人々が、なぜ、原子力緊急事態宣言の問題には口ごもってしまうのか、だ。
原子力緊急事態宣言を批判することは、すなわち同時に、福島「復興」政策の異常性を議論の俎上にあげるということである。そして人々が本当に避けているのは、「復興」政策の是非を議論することなのである。
もう少し踏み込んで別の言い方をすれば、福島「復興」政策を信じているか信じたふりをしている人々の社会的合意を基礎にして、原子力緊急事態宣言下の行政権力の暴走が可能になっているのである。この構図は、「復興翼賛体制」と呼ぶべきものだとおもう。
福島と原発をめぐる国の政策は、問題だらけである。批判的に検討すべきものが山ほどある。しかし福島「復興」への翼賛が、あるべき議論を抑制し、結果として不問にしてしまうのだ。
私たちが権力との対立の焦点とするべきは、ここである。
被ばく受忍を美談に仕立て上げた福島「復興」政策に、正面から対決しなければならない。