深夜に電話が鳴った。ぺぺさんが亡くなったという。
「だめ連」のぺぺ長谷川さんが亡くなった。
彼に最後に会ったのは、昨年の夏。
私に遺していった言葉は、ふたつ。
「ウクライナ反戦、どうするか問題」
そして
「このフェスはいま日本で一番おもしろいフェスだよ!」
昨年の夏、前触れもなく、ペペさんから電話がかかってきた。名古屋に遊びに行くからトークしよう、と。ぺぺさんに呼び出されたら、断れない。名古屋駅まで会いに行ったところ、もうすでに眼をらんらんとさせて、キマっていた。彼は、ゆっくりとシリアスな表情をつくりながら、ノリノリで、「ウクライナ反戦どうするか問題」をきりだした。
ウクライナ戦争をめぐっては、その認識に大きな分岐が生まれていた。ロシア政府の軍事侵攻・国際法違反を批判する人々と、NATO・米英政府の策動を批判する人々と。左翼全体に分岐が生まれていたし、小さなアナキストグループのなかでも分岐が生まれていた。「これは日本だけの話じゃなくて、ヨーロッパの左翼もこの問題で割れてるらしいんだよ」と、ぺぺさんはニヤニヤしながら話していた。
私は昔イラク反戦運動に加わってはいたが、2011年以降は原子力問題に絞って活動している。遠い外国の戦争よりも、いま日本で進行している放射能汚染が優先課題だからだ。頭から放射性物質を浴びせられながら、それより優先する課題などないはずだ。そんな私にたいしてウクライナ戦争の話題をむけるというのは、ずいぶん的外れだなあと思った。が、不愉快な気持ちにはならなかった。ぺぺさんはいつもヘラヘラと酔っぱらっているけれども、その中味は実に昔気質で、けれんみのない議論を好む。ドがつくほど真面目なのだ。彼は、誰も議論したがらないでいるウクライナ戦争について、バラバラになった仲間を集めてじっくりと議論するための方策を練っていたのだ。
ぺぺさんの意図にそうような返答は、何もできなかった。気持ちは受け取った。しかしこの件について、私は、役立たずだ。反戦運動をどうするかという問いだけが、のこった。
その後ひと月ほどして、ぺぺさんは再び名古屋にやってきた。豊田市の矢作川の河川敷で開催される「橋の下世界音楽祭」に遊びに来たのだ。河川敷にテントを張って、二泊三日の音楽フェスだ。私も誘いをうけたので、豊田に向かった。初日はどしゃ降りの雨で、私はテンションが下がりまくりだったのだが、東京から到着したぺぺさんは、すでにキマっていた。深夜には雨が上がり、私も気持ちがのってきた。夜の河川敷に光る電球の連なりが、キラキラと美しく輝いていた。一曲が20分にも30分にも感じられ、長く深い高揚感に包まれる。雨でぬかるんだ泥道がとても気持ちよくて、はだしになって泥の感触を楽しんだ。バンドが終わった深夜からは、トランスで3時間ほど踊りくるった。
ぺぺさんは眼をらんらんとさせて言った。
「俺も全国いろいろまわってるけど、ここはいま日本で一番おもしろいフェスだよ!」
彼が私に教えてくれた最後の言葉は、熱いフェス情報だった。
私が知るぺぺ長谷川は、いつもヘラヘラニヤニヤしていて、その実ものすごく真面目に考えていて、同時に、遊ぶことに本気だった。おそらく彼にとって、遊びは、闘いであった。
人間あんなふうに生きられたら、幸せだとおもう。
たぶん、悔いはないはずだ。
ペペさんの冥福を祈ります。