2022年3月28日月曜日

放射能汚染、スペクタクル、極右

 


 ウクライナのゼレンスキー大統領の演説は、芝居がかったものだった。

ウクライナの戦禍は国内外の人々が心を痛めるものだが、それに比して、ゼレンスキーの言葉は人の心を打つ名演説というものではなく、その剽窃、模造品を見せられた気分だ。

 極論を言えば、現在のゼレンスキー政権にとって真実味は必要ではなく、模造品で良いのだ。アメリカの軽薄な政治家を動かせる程度の、名演説風の模造品を提示できれば、それでよい。アメリカの政治家が発奮すれば、西欧と日本のメディアは右へならえで、名演説名演説と喝采することになる。本当は誰も感動してはいないのに、感動したふりをするのだ。

 戦争の渦中にありながら真実味のない演説をする姿には、驚く。同時に、この演説の異様さには既視感もある。私は11年前に、こういう嘘くさい演説をたくさん見た。放射能汚染の渦中にあって、必死の表情で、嘘くさい演説をする政治家や知識人がいた。

 

 ウクライナと日本は遠く離れているが、共通した特徴をもっている。原子力発電所からの放射能汚染によって、居住環境が著しく損なわれていることだ。汚染の範囲は広大で、それぞれの首都を呑み込んでいる。チェルノブイリ原発の放射能汚染はキエフに及んだし、東京電力福島第一原発の放射能汚染は東京圏3500万人に降り注いだ。

 原子力公害は被害の範囲が広大である。局地的で例外的な被害ということにならない。誰もが当事者として脅威に直面する。そして放射能汚染は、社会を大きく変質させるほどのダメージを与える。

必死になって嘘をつく者、嘘に便乗する者、嘘を見抜きながら容認する者。他の事象であれば鋭い批評性を発揮する者が、放射能汚染については口をつぐんだ。わかりきった話なのに、わからないふりをしてやりすごした。誰も責任を取りたくないから、頭を低くして論争を避けていた。

もっとも重要な問題であった土壌汚染被害は棚上げにされ、反原発と自然エネルギーの議論に精力を注いだ。喫緊の課題を後回しにして、焦点のズレた議論に時間を費やす。客観的には滑稽な話なのだが、汚染地域の当事者たちは必死だったのだ。必死になって、嘘の議論と嘘の演説をしていたのだ。

 

 マスメディアは、原発事故の直後から嘘に染まり、野田内閣が「福島復興」を号令してからは、凶暴性を増した。マスメディアは汚染被害に関する正当な議論を押しつぶしていった。汚染問題を口にすることは、福島復興政策の敵になったのだ。


 現在のウクライナ戦争では、ウクライナ軍とロシア軍の双方が、情報戦を展開している。現代戦において、嘘や印象操作は、ミサイルに匹敵する重要な武装になっている。だがこの情報戦は、ロシア軍が侵攻するずっと以前からあったのだろうと、私は推測する。2011年以降の日本では、原子力公害と公害隠しを動機として、政府の情報戦が展開された。ウクライナにも同様のことがあっただろうと推測できるのだ。ウクライナの社会は、戦争になる以前から嘘にまみれていた。そう考えると、ゼレンスキー演説の嘘くささ、芝居くささは、他人事ではない。日本政治の未来を予示するものかもしれない。野田政権と安倍政権が強行した嘘の政治は、何度も繰り返し、凶暴さを増していくことになるのだ。


 2012年に書いた『3・12の思想』のなかで、私は、放射能汚染によって極右が台頭する時代になるだろうと書いた。この予見は、残念ながら当たってしまった。

放射能汚染が極右を育てるという現象は、二つの機制から言うことができる。

一つは放射性物質のフィジカルな効果。放射性物質による人体汚染は、脳機能の低下をもたらす。複雑で冷静な思考が困難になり、短絡的で衝動的な思考に陥りやすくなる。汚染社会において、人々はだまされやすくなり、熱狂しやすくなり、権力に従順になる。

 もう一つは、汚染の社会的効果。放射能に汚染された社会は、被曝の受忍を強いられる。被曝の受忍を拒否して東日本から退避した人々も少なくないが、住民の多数はその地域にとどまり、被曝を受忍しながら生活する。被曝受忍とは、生存と健康に関わる自己保存の権利を、政府によってはく奪されている状態である。こうした条件の下では、人間は自己愛を毀損されてしまう。自己愛を毀損された者は、他人を尊重することが困難になる。いわゆる「自己愛性人格障害」の例に見られるように、自分を愛せない人間は他人を愛することができない。自己愛を毀損された人間集団では、人権や相互扶助といった理念は育ちにくく、他罰的で教条主義的な思想に傾きやすい。

 

 この極右たちが厄介であるのは、自分が熱狂のなかで極右的主張をしているという自覚がないことだ。例えば、現在のウクライナ戦争に関して言えば、日本のマスメディアはアメリカ政府の動きにまったく無批判である。バイデン大統領は、中立国である中国に圧力を加え、ロシアへの経済制裁を要求している。これは、ウクライナ戦争を世界大戦に拡大させてしまうかもしれない非常に危険な動きなのだが、反ロシアに熱狂する日本のメディアは、バイデンの危険性にまるで無頓着である。ロシアを力で圧倒しようとするバイデンのやり方は、冷静さを欠いた極右的な動きである。これに日本のメディアが便乗して、中国政府を「ロシア擁護」だとレッテル張りをして論難するさまは、どう考えても異常である。中立という立場がなぜ論難されるのか。日本のメディア人たちは、世界を二分する大戦争を待望しているのだろうか。

 

 

 話にまとまりがなくなってきたが、私は、政治に安い芝居を持ち込むやり方は嫌いだ。

ゼレンスキーの演説を見て、うんざりした。またかよ、と。またこれか、と。

 本当に深刻な状況のなかで、安い芝居をする政治家は、もう何人も見てきた。

お前だけ死ねばいいのに、と思う。

 

 

 

 

 

 

2022年3月17日木曜日

ウクライナ国旗を掲げる流行について

ロシアとウクライナの戦争について、世界中で反戦デモが起きている。
私はまだ一度も参加していないが、あさって、名古屋の集会でこの反戦運動の議論になると予想されるので、頭を整理しておく。

 まず、現在行われているデモの特徴は、国旗を掲げる反戦運動になっていることだ。青と黄色のウクライナ国旗を掲げることが流行っている。反戦と国旗という異例の取り合わせで、ちょっと頭がバグる。

 私は、2001年のアフガン戦争、2003年のイラク戦争に際して、反戦運動に加わった。イラク反戦運動は世界中に拡大して、東京でも連日1万人規模の反戦デモが行われていた。私たちはアメリカ軍によるイラク侵攻に反対していたのだが、このとき、イラクの国旗を掲げる者は一人もいなかった。アフガニスタンの国旗を掲げる者も皆無だった。反戦運動というものは、特定の国の国旗を掲げないことが当たり前、暗黙の了解だったからだ。
 しかし、現在のウクライナ反戦運動は、ウクライナ国旗を掲げている。あまりに無原則で不用意な印象を受ける。これはやめるべきだ。

 そもそも反戦運動の始まりは、第一次大戦中のドイツ・ロシア両国の大衆運動に遡る。ドイツのローザルクセンブルグと、ロシアのレーニンが、反戦運動を提起し、行動し、大規模な大衆運動へと拡大したのである。このとき、ローザとレーニンが提起したもっとも重要な論点は、戦争をするどちらの政府にも正義はない、ということである。どちらの陣営に戦争の正当性があるかないかという議論は、馬鹿げている。どちらの政府も不正義である。戦争当事国はすべて悪である、と言ったのだ。では、正義はどこにあるか。正義は、民衆が殺しあうことも飢えることもなく平穏に暮らす権利である。国家間の敵対性などというものは議論する価値のないどうでもよいことであって、真の敵対性は国家と民衆の間にある、と言ったのだ。反戦運動がもつ説得力の核心は、この点にある。

 こうした運動の歴史を参照するならば、反戦運動に、特定の国の国旗を、肯定的な意味を付与して持ち込むことは、だめだ。まったく原則を外れている。
もしも国旗を持ち込みたいというのならば、ロシア国旗とウクライナ国旗を並べて、両方に×を描くことだ。ついでに、ウクライナに武器を供与したドイツ国旗とアメリカ星条旗にも×だ。国家のパワーゲームのせいで、200万人を超える難民が生まれているのだから、すべての国旗に×を描き、燃やすことだ。