菅直人議員が橋下徹のふるまいについて「ヒトラーを思い起こす」と論評した件について、民放テレビ局がひどい誤報を垂れ流している。
これに関連して、政治学者の萱野稔人は、菅議員の発言を「ヘイトスピーチ」だと発言した。
とんでもない不見識、「ヘイトスピーチ」という概念の歪曲である。差別と闘ってきた者であれば絶対に間違えることのない、100%の間違い、完全なデマである。
テレビに出たいのかどうか知らんが、テキトウなことをペラペラ喋るな。
殴るぞ。
菅直人議員が橋下徹のふるまいについて「ヒトラーを思い起こす」と論評した件について、民放テレビ局がひどい誤報を垂れ流している。
これに関連して、政治学者の萱野稔人は、菅議員の発言を「ヘイトスピーチ」だと発言した。
とんでもない不見識、「ヘイトスピーチ」という概念の歪曲である。差別と闘ってきた者であれば絶対に間違えることのない、100%の間違い、完全なデマである。
テレビに出たいのかどうか知らんが、テキトウなことをペラペラ喋るな。
殴るぞ。
議会選挙による政権交代という運動方針は、もうそろそろ切り上げるべきだと思う。
理由は二つ。
第一に、連合執行部には政権交代をする意思はない。
第二に、立憲・社民・共産党には、何のための政権交代か、誰による政権交代かという議論が不足している。だましだましの「野合」という感はぬぐえない。
立憲民主党の政治家が情勢に対して受動的に右往左往するのは、まあ、いいとして、問題は、共産党と共産主義諸派が情勢分析の主導性を発揮していないことだ。
私たちが主導的に議論し説明していかなければならないのは、2010年代の総括である。
なぜ民主党が下野し、分解し、かわって自民党が専制的長期政権を実現することになったのか。なぜ、原子力事故という大失態を犯した経産省が、その後政権の中心に居座り権勢を振るうことになったのか。この疑問にきちんと説明を与えることが必要だ。その機制を明らかにしてはじめて、変革(または革命)の主体と客体が定まる。
私はいつでも議論に加わるつもりでいる。原子力問題は、専制政治の問題と直接につながっている問題だから、避けては通れない。
2021年の東京オリンピックの公式映画を委託された映画監督が、前代未聞の醜態をさらしている。この問題は、NHKの放送法違反問題にまで及ぶだろう。受信料で運営されるNHKが、荒唐無稽なデマ・都市伝説を堂々と流したのだ。見ているこちらが恥ずかしい。
監督の怯えた目が印象的だ。
河瀬監督らの怯えた目は、日本の現在を象徴するものだと思う。彼らは怯えていて、なんでもいいから心を落ち着かせるグルーミングを求めていて、真偽の疑わしい与太話や都市伝説にすがるのだ。
この現象の直近の起点となっているのは、2011年、原子力公害事件後のパニックである。前例のない大規模汚染という事態に際して、日本政府は汚染問題の過小評価に力を注いだ。原子力基本法は棚上げにされ、被曝線量基準は大幅に引き上げられた。原発安全論に立っていた経産省は、爆発後は放射能安全論を唱えだした。
民間の学者や市民も、多くが放射能安全論に追従して、荒唐無稽な説を信じるようになった。ある者は「にこにこと笑って免疫力を挙げれば人体汚染は相殺できる」と言い、ある者は「放射能を浴びればかえって健康になる」と言い、ある者は「水の入ったペットボトルを並べれば放射線を遮蔽できる」と言い、まったく愚にもつかない与太話が蔓延したのだ。
なぜか。彼らは政府・経産省の判断と号令を信頼していたのだろうか。そうではない。彼らは怖かったのだ。自分が信じてきた常識が壊れてしまったこと。問題を自分の目で見て、考えて、判断すること。権威や権力を離れて、一人の自立した主体として立つことが、恐ろしかったのだ。主体として立つぐらいなら、弱い者同士で与太話を語ってグルーミングしあう方がいいのだ。
私は河瀬監督の怯えた目を見て、おもわず噴き出した。
あの目は、2012年、放射能汚染がれきの前で空間線量計を振り回して演説していた細野豪志環境大臣(当時)の、あの時の目と一緒だ。完全に判断力を失っている。どれだけ正当な批判を受けても、彼自身にはもうどうしようもないのだ。