2020年4月26日日曜日

大阪維新の会から学ぶべきこと

 みなさん感じているところだと思うが、大阪維新が不快だ。

 あいつら本当にアゴばっかりよくまわるな。
口動かしてないで手を動かせ、と言いたい。
こう感じるのは、私が愛知県民だからだろうか。大村知事や河村市長はあんな風にべらべら喋らない。大阪とは対照的だ。

 やるべきことはだいたい決まっているのだ。議論の余地はない。素人の持論を開陳してるヒマがあったら、さっさと医療資材を調達しろって。雨合羽なんか集めてないで、ちゃんと予算を組んで対応しろって。

 維新の会の迷走を見ていると、大阪のファシスト的な傾向というのは、ある種の強迫神経症なのかとも思う。行動への躊躇が、べちゃくちゃとしたおしゃべりに転化し、自動運動を始める。
庶民的と言えば庶民的だが、首長や政治家までそうでは困る。

2020年4月20日月曜日

「俺はコロナだ」事件をどう解釈するか




 新型コロナウイルスが市中感染の段階に入ってから、愛知県では「俺はコロナだ」事件が多発している。
 「俺はコロナだ」事件とは、ドラッグストアや、スーパーマーケットや、市役所の窓口などで、訪問客が「俺はコロナだ」と通告して立ち去る、という事件だ。対応した人は強いショックをうけ、店では消毒作業に追われる。いま愛知県では、これが流行っている。
 興味深いのは、この種の事件の犯人は、もっぱら男性であるということだ。しかも若者ではなく、中高年の男性がこれをやるのだ。

 なぜ彼らは、「俺はコロナだ」と言うのか。
理由として考えられるのは3つ。
1、市中感染への恐怖心から
2、行動制限への反発心から
3、隔離措置の要求(期待)
 彼らを衝き動かしているのは、この3つの混合したものだと思われる。
1と2は、まあ、わかる。致死率の高い新型ウイルスは怖いし、行動制限は非常にフラストレーションがたまる。これは老若男女みな感じているところだ。だが、この2つだけでは、「俺はコロナだ」犯にはなれない。

 ここからは私の解釈だが、「俺はコロナだ」犯は、たんに表面的外形的な欲求不満を爆発させたのではない。もっと深い、人間の内奥にある、実存的な危機を経験している。それは、人間の自由と主体に関わる問題だ。
 市中感染は、各人の努力次第で予防することができる。私たちは将来、感染するかもしれないし、感染しないかもしれない。その運命のどちらかを、自分の手で獲得することができる。いや、自分自身の努力によってしか感染予防はできない。他人任せにしていたのでは、新型ウイルスの餌食になってしまうだろう。いま多くの人々は、新型ウイルスから自由であり、このまま自由であり続けるために主体的に感染予防に取り組まなければならない。そういう状況におかれている。
 これは、大変なことだ。自分が客体ではなく主体になるということを、突然強いられることになったのである。自分が自分の運命を主体的に生きる。そんな生き方をしてきた人間がどれだけいるだろうか。この社会は、そんな主体的な生き方を許す社会であっただろうか。いきなりやれと言われても、困ってしまうのだ。

 「俺はコロナだ」は、悲鳴である。
 愛知県民はいま深い危機を経験している。
おもしろい。


2020年4月7日火曜日

日本ではトリアージは実施されない


 4月7日時点でのメモ。

 日本政府は新型ウイルスに関する「緊急事態宣言」を発出した。
この宣言に一定の効果はあるだろうが、総体としては、政府の「やってる感」を演出するものにとどまるだろう。
 中国のような強権的な施策はとれず、だらだらと棄民政策がつづく。おそらく10万人のオーダーで死者が出ることになる。

 とくに大きな被害を出すのは医療機関である。もともとやせ細っていた医療体制は、この新型ウイルスによってますます弱体化するだろう。本来であれば、トリアージを実施すべき場面ではある。重傷者の治療をあきらめて、その分の医療資源を軽症者の隔離・治療にふりむけるべきだ。だが日本の国家権力は質的に弱いものなので、強権的なトリアージは実施できない。中国のような強い国家でも、それを公然とはできなかったのである。日本でのトリアージ実施は、とうてい無理だ。重傷者の対応をだらだらと続けさせ、多くの医師と看護師を死なせてしまうだろう。
 新型ウイルスが医療スタッフをなぎ倒していくことで、他の疾患の患者にも影響が出るだろう。本当であれば治療できたはずの者が、人員と施設と資源が足りないために死んでいく。これは関連死だ。関連死は、感染の終息後にも長く尾を引くことになる。




2020年4月5日日曜日

換気と自律



 10日ほど前に、娘は京都市内の学生寮に引っ越していった。1960年代に建てられた古い建物に、約400名が入居しているという。学生による自主管理を続けてきた自治寮だ。
 新型ウイルス問題に際して、この寮では換気を徹底することにしたという。昼も夜も窓を開け放った状態で、生活している。こういう対策は、寮自治会の対策部会で、つまり学生たち自身の会議で、決定するのだという。さすが自治寮だ。もしもこの400名の寮で感染者が発生してしまったら、文科省による自治寮つぶしにかっこうの材料を与えてしまうことになる。だから学生たちも必死だ。絶対に感染者を出さないという覚悟をもって臨んでいる。素晴らしいことだと思う。やっぱり自治寮は、安心して子を預けられる。

 この古い建物も、よい。学生たちの換気対策を可能にしているのは、この建物に開閉できる窓があるからだ。
 そんなことは当たり前だと思われるかもしれないが、近年は、窓が開閉できない建物も多くなっている。オフィスビルや商業建築はもちろんのこと、大学施設でも窓の開かない建物が増えている。大きな板ガラスをはめ殺しにして気密性を高め、換気は空調機まかせ、という設計だ。窓を開けられない、換気扇すらない、という空間は、例外的なものではなくなったのである。

 こういう空調管理型の建物は、外観は清潔に見えるが、新型ウイルスにたいしては脆弱である。換気を機械まかせにしているのだから、もしも機械に不具合が起きれば、全滅だ。
 窓を開け放って寝ている自治寮の学生たちは、見かけは滑稽に見えるが、しっかりと自律的に対策をとっている。
それとは対照的に、空調を機械まかせにしているオフィスや教室は、見かけは格好いいが、ずいぶん他律的であぶなっかしいものだ。とくに今は、不潔な空間となっている。
90年代以降に建てられたインテリジェントビルには、気をつけよう。





2020年4月3日金曜日

ワクチン主義と家事労働




 科学史家イザベル・スタンジェールは、著書『科学と権力』の冒頭で、パスツール研究所の成立過程を振りかえっている。
 と、いまその本を探したのだが、本棚がめちゃくちゃで見つからない。なので、ここからはうろおぼえで書く。
 スタンジェールの整理によれば、パスツール研究所の成功のカギは、ワクチン開発とその商品化であった。そして、ワクチン商品の誕生によって後景化されたのは、環境整備の技法である。
 防疫の試みには二つのアプローチがあって、一つは衛生的な環境を整備する技法の確立、もう一つは種痘やワクチンの開発であった。勝利するのはワクチンである。なぜならワクチンは、経済的に大きな利益を生み出す商品になったからである。それにたいして、環境整備の技法は、商品化することのできないこまごまとした知見と実践である。それは普及力の高い知識であり、経済的な利益としては、手引書の売り上げ程度にしかならない。パスツール研究所を成功に導いたのは、ワクチン販売が生み出す莫大な利益であった。

 では、防疫への寄与度はどちらが高いのかというと、これは圧倒的に環境整備である。家畜の飲み水を清潔に保つこと、畜舎を清潔にすること、一つ一つは小さな、こまごまとした配慮の集積が、防疫を実現する。だが、環境整備は手間がかかる。これは、ワクチンのような一発打てば解決という商品ではなく、日常的な配慮と実践の積み重ね、言わば家事労働に近いものだ。
 パスツール研究所の成功は、ワクチン主義を上位におき、環境整備を下位におくという政治的ヒエラルキーを生み出してしまった。本当は、環境整備の方が寄与度は高いのだが。

 この政治的ヒエラルキーは、人間の医療現場に当てはめて言えば、医師と看護師の関係にあたるだろう。医師は、処方箋を書き薬剤を投与する。看護師は、ベッドや備品を清潔に保ち、患者の療養環境を整備する。政治的な決定権は、医師が独占している。この構図を、私たちは疑うことなく受け入れているのだが、本当にそれでいいのかという疑問もある。
 今次の新型ウイルス問題では、効果のある薬剤はなく、ワクチンもない。アメリカの製薬企業ジョンソン&ジョンソンがワクチン開発を開始したが、実用化は来年以降だという。こうなると当面は、医師の仕事はない。いま新型ウイルスに対抗する唯一の武器となるのは、環境を整備する看護師たちの技法である。部屋を適切に分割すること、汚れたシーツを適切な手順で洗うこと、備品・ドアノブ・手すりを清潔に保つこと、部屋を換気すること等々、細やかで厳密な配慮を積み重ねることだ。
 テレビには医師が登場し、新型ウイルスへの対処を論じている。これはいかにも制度的で的外れな編成だ。私たちが本当に聞きたいのは、医師の意見ではなく、看護師たちのアドバイスである。看護師がいまどのような実践を行っているのか。どんな方法が失敗し、どんな方法が奏功したのか、その知見が聞きたいのだ。



2020年4月2日木曜日

マスクづくり


 いま、マスクづくりを手伝っている。
放射能市民測定所で知り合ったAさんは、縫製職人で、普段は衣服のリサイズやフィッティングといった仕事を一人ほそぼそとやっている。だが今次の感染問題に際して、急遽、マスクの生産を始めた。
 彼女がつくるのは、香港の化学博士が設計・公開した「HKマスク」。二枚の布の間にキッチンペーパーを挿入し、医療現場で使用される「N95マスク」に近い性能をもつ。公開されている型紙を使って試作品を作ったところ、注文が殺到。私も作業を手伝うことになった。
 といっても、私は縫製作業をやるのは初めてのド素人である。鉄や木は扱ったことがあるが、繊維のような柔らかいものは、まったく勝手がわからない。これから見習い修行だ。今日は、さらしのアイロンがけを教えてもらった。

 新型コロナウイルスの市中感染が始まったことで、行政機関と医療機関は徐々に機能不全に陥っていくだろう。
 放射線防護の仲間たちにとっては、二度目の闘いである。
みな、比較的落ち着いている。というのも、新型ウイルスは放射性物質に比べてはるかに対処しやすい相手だからだ。
 放射性物質はどうやっても無毒化できないが、今次の新型ウイルスは石鹸や塩素やアルコールで破壊することができる。洗えばなくなるのだからラクなものだ。放射性物質は政府が存在を否定するが、新型ウイルスは誰もが存在を認めている。不毛な論争やはぐらかしにあうこともない。放射能汚染は少なくとも300年は対処しなければならない課題だが、ウイルス感染は遅くとも3年後には終息する。
 放射能汚染の脅威に比べれば、新型ウイルスは対処しやすい脅威である。粛々と感染予防に取り組めばよい。

 Aさんがつくる「HKマスク」は、店頭に並べて販売するものではない。個人的なつながりで注文を受け、配布していく。これは資本主義の商品経済とは違った、もう一つの経済活動だ。「地下経済」、「贈与経済」、あるいはマルクス主義フェミニズムが言う「サブシステンス生産」に属するものである。
 いま店頭では、使い捨てマスクが売り切れてしまい、入手できなくなっている。政府は全世帯にマスクを配給すると言っているが、そのマスクは性能が不安視されるものだ。商品経済のマスクがなくなり、政府配給のマスクが性能不足であったとき、最後に頼りになるのは、自家製の「サブシステンス生産」のマスクだ。
 AさんのつくるHKマスクは、これまで放射能汚染問題に取り組み「放射脳」と蔑まれた人々によって、頒布されていく。放射能安全論者の手には渡さない。放射能安全論者には、この機会に少しおとなしくなってもらったほうがよい。