山の手緑がひさびさに絵を描いています。
私の記憶では8年ぶりです。
いまから8年前、ネットラジオ『Voice Of Antifa』のステッカーでは、構成も描線も炸裂していましたが、今回は常識の範囲内です。
画伯も丸くなりました。
↓
大須作文教室公式ブログ
『作文教室での学び方』
2017年12月22日金曜日
2017年12月4日月曜日
2017年11月10日金曜日
書くためのデザイン
名古屋市の大須という街で作文教室を開くために、準備をしている。
年内の開校をめざして、いまは教室の内装をつくっている。
“矢部史郎+山の手緑”で文章を書くときは、山の手緑が監修し私が書いているのだが、デザインの作業では役割が交替する。私が監修し、山の手緑が具体的な製作をしている。
書くための空間デザインは、私の経験に基づいて、床や巾木からつくりなおしている。契約した部屋は一般的なオフィス用で、作文のためにつくられた空間ではないからだ。そもそも作文のためにつくられたアトリエというものは、日本にはほとんど存在しない。大学にもない。現在の大学の教室設計は、残念ながらアトリエとは正反対のものだ。あんな留置場のような配色をした抑圧的な空間では、学生たちが苦労するのも無理もない。
私が取り組まなければならないのは、人がどんな環境で考え文章を書くのかということを、具体的に示していくことだ。
まずは教室の立地に、大須という街を選んだ。私が実際に散歩をして、ここならいけると思ったからだ。
作文を書くためには、散歩ができる環境でなければならない。作文という作業には、“書いている時間”と“書けないでいる時間”があって、大切なのは“書けないでいる時間”をどうやって過ごすかである。書けないでいる時間は、外に出て散歩をしなくてはならない。散歩をする街は、殺風景ではいけない。複数の欲望の線が交錯するダイアグラムがなくてはならない。今回借りた教室は“赤門”という交差点にあるのだが、ここからは大須、矢場町、上前津、東別院、あるいは新堀川を超えて鶴舞へと、徒歩圏内に複数の風景を見ることができる。書けないでいる苦しい時間に、たっぷりと散歩をすることができる。
作文を書くためには、散歩ができる環境でなければならない。作文という作業には、“書いている時間”と“書けないでいる時間”があって、大切なのは“書けないでいる時間”をどうやって過ごすかである。書けないでいる時間は、外に出て散歩をしなくてはならない。散歩をする街は、殺風景ではいけない。複数の欲望の線が交錯するダイアグラムがなくてはならない。今回借りた教室は“赤門”という交差点にあるのだが、ここからは大須、矢場町、上前津、東別院、あるいは新堀川を超えて鶴舞へと、徒歩圏内に複数の風景を見ることができる。書けないでいる苦しい時間に、たっぷりと散歩をすることができる。
教室の床は、もともと敷かれていたネズミ色のカーペットをすべて剥がした。かわりに、ブラウン・ベージュ・モスグリーンの三色でタイル模様にした。
机は、一人に一台ダイニングテーブルを用意した。天板は1m×1.5mなので、充分な広さだと思う。テーブルの高さは65cmにするか70cmにするか迷ったが、足を組んでもぶつからないように70cmにした。机と椅子は、アール・デコから派生した50年代アメリカの様式。これだけだとあっさりしすぎているので、ハンガースタンドやパーテーションなどの調度品を使って、アール・デコに寄せる。目指すのは、コーヒーを飲みながらぼんやりとすごすことのできる空間だ。
作文という作業には、“書いている時間”と“書けないでいる時間”があって、大切なのは“書けないでいる時間”をどうやって過ごすかである。ここで絶対に避けなければならないのは、自己嫌悪や無力感に支配されて、書くことを放棄してしまうことだ。自己嫌悪の感情に負けないために、自己愛を供給しなくてはならない。“書いている時間”だけでなく“書けないでいる時間”も含めて、“私は大切な時間を過ごしている”と感じられるようにしなくてはならない。そうした自己愛を備給するための空間、椅子、あるいは、コーヒーやタバコといった嗜好品が必要になってくる。
書くための空間デザインは、いわゆる「デザイナー」にはできない作業である。「デザイナー」は、デザイン作業やデザインの歴史は知っていても、書くということがどういうことかを知っているわけではないからだ。
いや、この際ついでに言うことにするが、一般的に言って、「デザイナー」の無知というのは甚だしいものがある。怒りをおぼえることもしばしばである。
「デザイナー」の無知の代表的な例としては、「子供用学習机」のデザインがある。ひどいものである。硬い椅子、狭い天板、視界をさえぎる配置、まるで拷問器具のようなデザインだ。デザイナーが児童教育に無知であるために、子供たちは「子供用学習机」に向かうたびにストレスを感じ続けるのである。あんな机で勉強をしろというのは、客観的に見て無理な要求である。結局、子供たちは「子供用学習机」を嫌って、キッチンのダイニングテーブルで宿題をやることになる。そうなると「子供用学習机」とはなんなのか。子供にも学習にも寄与しない、机ですらない、たんなる粗大ゴミである。
「デザイナー」たちの教育にたいする無知・無関心は、児童教育だけでなく大学教育にまで及んでいる。大学の空間デザインは、これまたひどいものだ。再開発されるたびにひどくなる。大学で過ごす人々が何をするために集まっているのか、彼らがどんな時間を過ごし、彼らからどんな力を引き出さなければならないのか、そのことに少しでも想像力を働かせれば、あんなひどいデザインにはならないはずだ。2000年代以降、大学や大学生は、“素敵なもの”ではなく“ダサいもの”になってしまった。その大きな要因には、大学建築の失敗がある。
まあそれはさておき。
いま私たちが設計している作文アトリエは、もちろん研究生のためにつくられるものだが、私自身のためでもある。私が何かを書くときに、もっと快適に書きたいと思うからだ。書くために深夜のデニーズに通うのも悪くはないが、どうせ教室をつくるのなら、私にとっても快適に過ごせるような空間にしたい。
2017年10月15日日曜日
多発する骨折症状について
自分でも気が付かないうちに骨折していた、という症状が報告されています。
この種の骨折、放射性物質による人体汚染との関連が疑われています。
なぜ放射性物質によって骨折が多発するのかは充分にわかっていませんが、二つの説があります。
1、放射性ストロンチウム原因説
体内に取り込まれた放射性ストロンチウム(Sr89,Sr90)が骨に混入し、弱くしている、という説。
放射性ストロンチウムは、食品のカルシウム成分に混入するので、牛乳、小魚、大豆製品を通して体内に吸収されます。体内に吸収された放射性ストロンチウムは、骨になったところで崩壊し、放射性イットリウムというまったく別の物質になります。放射性イットリウムはさらに崩壊し、ジルコニウムという物質になります。カルシウムに混入した放射性ストロンチウムは、骨の中で、放射性ストロンチウム → 放射性イットリウム → ジルコニウムと変化していくのです。もちろんこの崩壊過程でベータ線を撃ちだしていくので、周辺組織にダメージを与えていきます。このことが骨をもろくしているという説です。
2、放射性セシウム原因説
放射性セシウム(Cs134,Cs137)を体内に取り込むと、脳機能が低下します。脳機能=運動機能が低下することで、体に余計な負荷をかけているという説です。
足の運び方、着地のタイミング、腕の振り方、受け身など、人体を衝撃からまもるための微妙な制御ができなくなると、体に大きな負荷がかかります。脳機能が低下することによって、無意識に避けられていたはずの衝撃を避けられなくなっている、という説です。
私がより深刻だとおもうのは、2の運動機能低下です。
着地や受け身がうまくできないという状態は、肉体労働者にとっては致命的です。骨折で済めばまだよいけれども、打ちどころを悪くすると大事故になります。
土木や建築の現場では、小さな踏み外しこそが恐ろしい。高さ2メートル未満の脚立から落ちたというような「小さな事故」が、重い障害をのこすことになるからです。
2017年10月11日水曜日
近況報告
いま、名古屋で新しい試みを準備しています。
バーではありません。むかし新宿でバーを経営したことは楽しかったし、いまでは良い思い出です。しかし私も初老を過ぎて、体を切る手術もして、いまの体力で酒場をまわしていくのは難しいかなと感じています。
これから私がやろうとしているのは、作文教室です。
名古屋市の大須に教室をかまえる準備をしています。児童向けの教室ではなく、18才以上を対象にした作文教室です。かっこよく言えば、後進の育成にあたるということです。
なぜ作文という方法をとるのか。理由は二つあります。
第一に、情報化社会の発達によって、人々が作文をする機会が広く生まれていて、多くの人が作文力を必要としているということがあります。
私が文章を書き始めたのは90年代の初め、当時は自主製作のミニコミ、現代風に言えばジンが、流行した時期です。自主製作で雑誌を発行することが、おもしろくて、かっこよかった時代です。そんな小さな雑誌の余白を埋めるために、コラムを書いたり書評を書いたりすることから、私の物書き人生は始まりました。90年代のなかばから、徐々にインターネットが普及していきます。誰でも自分のホームページを作成して、広く公開することができるようになりました。2000年代の反戦運動では、このインターネットによる情報告知が威力を発揮しました。その後、メールマガジンが登場し、はてなブログ、ユーチューブ、ミクシィ、フェイスブック、ツイッター、インスタグラムと、インターネットを基盤にした情報発信が拡大していきます。むかしむかし、ミニコミやFAX通信を利用していた時代からみれば、現代ははるかに作文環境が整っていると言えます。
情報環境が発達するのと同時に、情報の陳腐化も進行していきます。インターネット通信が普及したことで、誰もが情報を発信することができるようになりました。情報を発信すること自体は、いまでは珍しい話ではないのです。次に問題になってくるのは、無数にある情報の海の中で、自分がどのように差別化・卓越化していくのか、どうやって情報の陳腐化を回避するのか、ということです。このことに、みなさん懸命です。ツイッターをのぞいてみれば、強い煽情的な言葉で議論をしたり、あるいは、挑発的なイタズラ写真を撮ってみたり、危険な場所で“映える写真”を撮影したり、いろいろと工夫しています。急速に発達した情報技術にたいして、いまはまだ内容が追い付いていないのです。
この四半世紀で人間の習慣は急速に変化していて、それぞれが新しい習慣に対応するために、手探りで方法を模索している状態です。ここで芽生え生長している“一般知性”は、それを支えるための高度な言語能力を要求します。言語能力とは、言い換えれば、概念を概念化する能力、言葉を使って考える能力です。
こうした私の主張は、一見すると逆説におもわれるかもしれません。現在インターネットの表面で踊っているのは、オーディオ/ビジュアル技術の活用であって、言葉ではないからです。ツイッターでは短い言葉が交わされていますが、インスタグラムでは短い言葉すら書かれず画像だけが交わされているのです。こうした傾向を見れば、インターネットは非言語的、または、脱言語的なコミュニケーションに向かうのだと、結論づけられるかもしれません。しかしそれは、現象の断片を過大に評価したものです。インターネットの歴史はいまだ浅く、われわれ利用者はいまも手探りで模索している最中ですから、その行く末を結論づけるのはまだ早いのです。
たしかに現在の一部の利用者は、画像を偏愛する傾向があります。それは事実です。しかし、デジタル世代やその次の世代が、画像の交換だけで満足するとはとても思えません。そうした利用法は、ある日あるきっかけから、急速にダサいものになるでしょう。では、オーディオ/ビジュアル表現が陳腐化し、ダサいものになってしまったときに、なにが残るのか。私は作文だと思います。
さて、作文を教える第二の理由。
私はかれこれ20年エッセーを書いてきましたが、そろそろ引退に入る時期です。今年でもう46才、若い書き手に場所を譲る年齢です。だから、“矢部史郎+山の手緑”の作文技法を誰かに伝えておきたいと考えました。
この方法は“秘伝”にしてきたわけではないけれども、誰にも教えてこなかった方法です。もちろん大学では教わらないし、たぶん誰も実践していない特殊な方法です。
私のような学歴のない人間、読書家でも努力家でもない人間が、なぜあれほど抽象度の高い議論とエッセーをものにすることができたのか。自分で考えても不思議なことです。この不思議な経験を、方法化できたらいいな、と。私が山の手緑と共にやってきたこれまでの作業を振り返って、整理して、書くために何が必要なのかを明らかにしていきたい。そう考えています。
2017年9月24日日曜日
二重権力戦略における民話と伝説
名古屋共産研の『8・19集会報告集』が完成し、昨日発送しました。
ウニタ書店(名古屋)、カライモブックス(京都)、模索舎(東京)で販売しますので、よろしくお願いします。
ところで、8・19集会に参加していただいた蔵田計成氏に電話をしたところ、ちょっと落ちこんでいるようだったので、彼の問いに対する応答として、ひとつ文章を書きます。
まず、昨年来から話題になっている太田昌国氏の講演録『新左翼はなぜ力を亡くしたのか』に関するコメントから始めます。
私が広い意味での「新左翼」運動に関わりをもったのは、いまから30年前、80年代の末頃です。いまから振り返れば、80年代は市民運動がおおきく高揚した時期でした。
当時課題となっていたのは、中曽根政権による国鉄分割民営化問題、昭和天皇死去に伴う反天皇制運動、寄せ場・日雇い労働者の運動、在日韓国人の指紋押捺拒否闘争、沖縄では日の丸が焼き捨てられ、戦中の従軍慰安婦問題の告発もこの時期に準備されました。そして諸々の運動が勃興していく契機となったのは、86年のチェルノブイリ事件と反原発運動の爆発的拡大でした。チェルノブイリ事件後の反原発運動は、多くの女性たちを動かし、社会運動を活発化させました。彼女たちは議会政治においては、社会党を「土井社会党」へと生成変化させ、そのインパクトが90年代の議会政治再編の動因となりました。
何を言いたいかというと、ひとくちに「新左翼」と言っても、蔵田氏と私とでは、参照する時期が違っているということです。蔵田氏が考えようとしているのは、50年代末から80年頃までの時期、朝鮮戦争~日米安保条約~ベトナム戦争の時期の新左翼です。私が見てきたのは、86年末から現在までの新左翼です。私が見てきた「新左翼」と、蔵田氏が考えようとしている「新左翼」は、まったく別物ではないけれども、かなり様相が違っているのです。
そうなると、太田氏が語る『新左翼はなぜ力を亡くしたのか』という問いも、受け止め方が違ってきます。私の年代の人間から見ると、彼の設問自体が、新左翼のある時期に限定した問いであるということになります。
厳密さは脇において、私見として、おおざっぱな枠組みを言います。
45年から50年代の左翼は、綱領的にも実体的にも、マルクス=レーニン主義の運動です。経済成長を果たしたのち、60年代からは、グラムシ主義、「構造改革派」が席巻していきます。これは新左翼も共産党も社会党左派も含めて、多くの左翼が、構造改革路線の二重権力戦略へと向かっていきます。大戦後のいわゆる「55年体制」は、共産党の武装解除、革命主義の凍結、「構造改革」諸派の形成をもたらしました。こうした転換のなかで、共産主義者同盟は革命主義を放棄しなかった。共産同は、武装解除ではなく、武装の強化へと向かっていきました。
しかしここで逆説的なことは、共産同は、革命主義でありながら、結果として二重権力戦略の実現に寄与していくのです。主観的には革命主義であり、客観的には二重権力戦略の担い手であるという、このねじれが、共産同のおもしろさだと思います。いや、おもしろいことばかりではないけれども、あえて肯定的に言えば、このねじれた様態こそが共産同のおもしろさです。
私がこういうことを言うのは、80年代以降の運動状況をみているからです。市民運動という運動スタイルが、たんに社民主義に従属するのではなく、また、穏健な構造改革派のたんなるフロント組織ではないものとして、存在した。なぜ日本の市民運動は、政治党派のたんなる道具ではないものとして、自律的な暴力性を帯びて存在することができたのか。その運動の文化はどのようにして生まれたのか。私の主要な関心はここです。
だから、『なぜ新左翼は力を亡くしたのか』という設問にかえて、私が問いを組みなおすとすれば、こうです。
『なぜ新左翼はいまも生き残っているのか』
『新左翼のなにが人々を惹きつけてきたのか』
さて、ここから本題です。
共産主義者同盟は、綱領的にはマルクス=レーニン主義です。綱領だけをとりだして見れば、新左翼諸派のなかでもとくに古い、「古左翼」の部類です。
しかし日本の新左翼の歴史を考えるときに、共産同の存在を抜きには語れません。共産同は、綱領的には古典的なものをもちながら、実体としては新しいスタイルを構築しました。共産同は、頭の中身は革命主義で首から下はグラムシ主義者、あるいは、頭の中身はレーニン主義で首から下はブランキスト、という、新しい活動家のスタイルを生み出したのです。この実体としての新しさは、もっと評価されてよいのではないかと思います。
私は理論活動を重視しますが、理論を絶対視することはしません。なぜなら人間は、自分が意図したものとは違うものを生み出してしまうことがあるからです。そして運動は、理論や綱領よりも文化に依存する部分が大きいと考えるからです。
対抗権力、対抗権威、権力と対決する陣形を構築するためには、理論的な作業が不可欠です。しかしたんに理論があるだけでは、人々を動かすことはできません。対抗権力の核となるのは、権力と対決する文化です。
新左翼の活動家たちを見れば、このことは明白です。彼らの口にのぼるのは、たんに理論的な争点だけではありません。運動の歴史でもありません。活動家が語るのは、歴史に書かれないような断片的で小さな逸話です。固有の地名や固有の日付をもった逸話です。それは人によっては「砂川」であったり、「6月15日」であったり、また別の人は「佐世保」であったり、「10月8日」であったり、あるいは「三角公園」であったりする。そうした無数の民話、無数の伝説です。
対抗権力を下支えしているのは、人々が権力と対決するなかで生み出されてきた無数の民話・伝説です。権力と対決する文化を再生産するのは、闘いの民話・伝説です。そしてこの民話と伝説を保持し続けてきたことが、新左翼がいまも生き続けている理由であるとおもいます。議会政党は、この民話の再生産に失敗しました。議会外左翼(新左翼)だけが、闘いの伝説を語ることができて、権力と対決する文化を再生産できているのです。
『国家に抗する社会』を著した人類学者ピエール・クラストルは、アメリカの未開民族の社会を研究するなかで、長老の役割を描写しています。要約すると、こうです。
国家をもたない社会において、長老の役割は、伝説を語ることである。ところが若者たちは、長老の話に耳を傾けない。長老は、誰も聞いていないのに伝説を語り続ける。それが長老の任務だからである。
権力を集中させない健全な社会において、語ることとは、こういうスタイルで行われるのです。長老の語りは、指令や指導として機能するものではありません。話を半分差し引いて、ああまたその話かと聞き流されるべきものです。そしてそうやって聞き流された民話と伝説が、若者たちの生きる指針となるのです。それは指令ではないことによって、人々を衝き動かします。それは戒律ではないことによって、人々に節度を求めるのです。
こういうわけなので、蔵田さん、あまり落ち込まないでください。
私たちのような新左翼の話に耳を傾ける人間なんてほとんど存在しませんが、それでも、私たちは状況に深く関与しているのです。私にはそういう確信があります。
2017年9月5日火曜日
朝鮮人虐殺事件の教訓
集会報告集の編集作業がひと段落したので、ちょっと書きます。
1923年の関東大震災の直後、内務省の指令によって、関東に暮らす6000人の朝鮮人が虐殺されました。このときの「朝鮮人狩り」は、陸軍を中心に新聞社や民間人を動員した大規模なものになりました。被害は朝鮮人だけでなく、社会主義者や労働組合活動家、日本人の行商人も殺されました。内務省が主導したこの作戦は、大正デモクラシーから昭和ファシズムへの転換点となり、その後の軍国主義体制を決定づけた、重大な国家犯罪です。
この事件を振り返るとき、人は「デマに惑わされてはいけない」と言うのです。なにか教訓めいた言い方で、「デマに惑わされてはいけない」と。
これは間違いです。こんな教訓めいた言葉を繰り返しても、それは歴史から学んだことにはならない。
まず実践的な角度から考えてみましょう。
政府(当時は内務省)がデマを流布させるとき、それは真実として流布させます。信頼できる機関による信頼できる情報として流布させるのです。その情報が嘘であったとわかるのは、ずっと後になってからのことです。人間狩りに加わった民間人は、デマに踊らされようとしたのではなく、真実に従おうとしたのです。したがって、「デマに惑わされてはいけない」という教訓はまったく意味がないし、かえってデマゴギーにたいする人々の耐性を弱めてしまうことになります。
この事件から引き出すべき教訓は、「信頼できる機関の情報を鵜呑みにするな」です。デマゴギーは、「信頼できる機関の情報」として流布されるからです。情報が錯綜し、前後不覚になったとき、私たちは「信頼できる機関の情報」を信じてはいけないのです。
「信頼できる機関」とは、1923年当時であれば内務省、現在では文部科学省です。文部科学省が、年間20ミリシーベルトの被曝線量であれば帰還できるだとか、1キロあたり100ベクレル未満の汚染なら食べても大丈夫だとか、真実らしいことを言い出したら、ぜったいに信じてはいけない。その情報が嘘であることがわかるのは、ずっと後になってからです。
次に、この事件を振り返って、事後的にどう総括するかについて考えてみましょう。
デマゴギーは、自然発生的なものではありません。震災は自然災害ですが、デマゴギーは自然発生ではありません。それは、ある機関が意図をもって組織的に取り組んだ計略なのです。だから、歴史を振り返る私たちは、「デマに惑わされてはいけない」というだけでは不充分です。災害の混乱に乗じてデマを流布させた機関と、それを可能にした政体に言及するべきです。陸軍が途方もない権力を掌握していったという意味で、朝鮮人虐殺事件は、2・26事件以上に重大な事件です。朝鮮人虐殺事件は、陸軍が犯した国家犯罪として書き残さなければならないのです。
問題が深刻であるのは、この作戦が大量の民間人をまきこみ、軍民の共犯関係を築いたことです。現代風に言えば、「市民参加型行政」の形式で、人間狩りが行われたのです。
だまされて利用された民間人は、自分をだました人間を追及することができません。自分も手を汚しているわけですから。彼は、自分はだまされたのだと言うことはできても、誰にだまされたのかを言うことができない。この共犯関係が生み出すバイアスによって、彼らは「デマに惑わされてはいけない」という、まったく不充分な「教訓」に留まり続けるのです。日本の新聞社がこの念仏を繰り返しているのは、自らが虐殺に加担した事実を批判的に総括することができないからなのです。
陸軍と共に人間狩りに加わった人間たちは、それ以降、軍のいいなりです。そうして事件が明るみになったあとも、その責任をなにか自然にみたてた「デマ」のせいにしてしまう。問題を正面から直視することができない。
私がかねてから「市民参加型行政」という手法に反対してきたのは、こういうことがあるからです。行政と民間の協働は、主客を混同させ、事業に対する正当な評価をできなくさせるのです。
現代で言えば、福島「復興」政策です。
この官民協働の大事業は、おびただしい流血をもたらした後、おそらく誰も責任をとろうとはしないのです。
2017年8月29日火曜日
疎外に親しむこと、疎外から力をひきだすこと
東京電力による放射能汚染問題は、放射性セシウム・放射性ストロンチウムを基準にして300年は続くものです。プルトニウムを基準にすれば、20万年は続きます。平野部分の回復は、これよりももっと短いものになるかもしれませんが、山林と海洋は長く毒性を保持し続けることになるでしょう。人間は、これまであまり問題にしないできた新しい環境と対峙することになりました。私たちは酸素が希薄な場所では生きられないように、放射線濃度の高い地域では生きられないのです。この汚染を技術的に克服する手段は、現在のところ存在しません。
人間の棲息環境が大きく変わってしまったという事実に、私たちは驚きました。想像を超える途方もない事態に、面食らったのです。しかし事件から6年も経った現在、そろそろ面食らっている時期も過ぎたのではないかと思います。いつまでも泣き言を言っていても始まらない。日本列島は陸地の三分の一を失い、太平洋を失ったのです。この事実は動かない。いまは慟哭している老人たちも、十年後には死に絶えます。私たちは未来に向かってどのように歩むのかを考えなくてはならないのです。
これからの思想に必要とされるのは、新たに現れた疎外と対峙しながら、この疎外に親しみ、疎外から力を引き出すことです。ここで私が言うのは思想の内容ではなく、姿勢の問題です。考える際にとるべき構えです。腹を据えて、ハートを強くもつこと。広域放射能汚染というこの巨大な疎外を、むしろ楽しんでみることです。
原子力時代のアナキズム、原子力時代の共産主義、原子力時代のフェミニズム、原子力時代の革命主義、原子力時代の陣地線論、原子力のテクスト分析、原子力時代の生‐権力、放射能汚染時代のサバルタン、等々、なんでもいいんです。いま私たちは、新しい知性が生みだされるまったく新しい条件に立ったのです。この機会を捉えずに、ただうなだれたり、腕をこまねいていたりするのなら、理論作業なんていらない。ただただ嘆いて神仏を拝んでおればよい。
もう嘆くのはやめて、次の時代の話をしましょう。
私は新しい議論の、新しい星図の、一つになりたいのです。
2017年8月22日火曜日
倒錯的なものの力について
4ヵ月かけて準備してきた共産研8月集会が終わり、事後の作業を進めています。
作業の合間に、ファレル・ウィリアムスの『HAPPY』を聴いています。
この曲、ファンキーなリズムに透きとおったファルセットボイスをのせて、2014年に大ヒットした名曲。
歌詞の内容は、こうです。
今から言うことはどうかしちゃったと思うかもしれないけど、
こんないいお天気だから、ちょっと休もうよ。
宇宙まで行く熱気球になったみたい。
大空の中では、何も気にしないよ baby。
だってハッピーだから。
部屋に天井がない感じになったら、手を叩こう。
だってハッピーだから。
幸せってのは本当なんだって感じたら、手を叩こう。
やりたかったのはこれって判ったら、手を叩こう。
すごい歌詞ですね。
これ、薬物でラリっているように見えるかもしれませんが、ラリっているのではありません。ヤケになって挑発しているようにも見えますが、ただ挑発したいというのでもない。
まじめに生きようとする人間が、まじめすぎてまじめの向こう側に突き抜けてしまった先に、倒錯的なものの力に触れる。なにが“HAPPY”なのかというと、自分自身が持っているこの倒錯的なものの力を発見したことが、HAPPY。こうなるともう薬物にたよる必要はありません。いつでもどこでも自家発電できてしまうわけですから。
悲しみと孤独と絶望をくぐった先に、誰もいない道端で、ただひとりで、ニヤニヤと笑みを浮かべる人間が生まれるのです。フェリックス・ガタリが「狂気になること」と言ったのは、もしかしたらこういうことなのかもしれません。
『HAPPY』ファレル・ウィリアムス
2017年8月17日木曜日
8月集会のれじゅめ
いよいよ明後日、名古屋共産研の集会です。
8・19集会「放射能安全神話を解体するために」
集会に先立って、報告者の蔵田計成氏(ゴフマン研究会)から、論文を一ついただきました。この論文、分量がそこそこあるので、関係者の皆さんには事前に送付しました。
で、私の報告の方のれじゅめは、ほぼメモみたいなものなので、ここで公開しておきます。
以下、れじゅめです。
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れじゅめ 『放射線防護のシャドウワーク』
2017/08/19 矢部史郎
1 放射線防護とは何をすることなのか
1-1 汚染調査
1-2 汚染地域の立ち入り制限
1-3 汚染物質の回収、拡散防止
1-4 被曝者にたいする医療措置
日本政府は必要な防護措置のほとんどを放棄した。東電事件がもたらした被害は、政府の手に余るものであった。
2 政府が放棄したものを誰が引き受けたのか
2-1 市民測定活動
2-2 自主避難・旅行制限
2-3 東日本産商品の不買
2-4 各家庭での健康管理
公衆の放射線防護対策を担ったのは、市民による無償の活動である。その主要な担い手は、子育て世代の主婦であった。
3 クリアランスのイデオロギー
3-1 予防原則の廃棄
3-2 「適正」と「過剰」
3-3 防護派を悪魔化する = ネグレクトと寄生の正当化
3-4 被曝受忍という政策判断に、科学の装いを与えること
3-5 科学の名で政策論争を封じ、政策論によって科学的批判を封じること
クリアランスをめぐる論争は、純然な自然科学の論争にはなりえない。この論争は、行政の専制と民主主義勢力との政策論争になる。
4 「復興」政策のほころび
4-1 帰還政策の破たん
4-2 健康被害の顕在化
4-3 「風評被害」のイニシアティブ
4-3 議会政党の後景化、人民民主主義へ
生命を収奪する「復興」政策は、破たんする。そのことで、生命を護持してきた「風評被害」勢力が、論争のイニシアティブをとることになる。議会政党は求心力を低下させる。
2017年8月12日土曜日
新刊『経済的徴兵制をぶっ潰せ!』、いただきました
献本をいただきました。ありがとうございます。
岩波ブックレット No.971
『経済的徴兵制をぶっ潰せ! 戦争と学生』
著=大野英士、雨宮処凛、入江公康、栗原康、白井聡、高橋若木、布施祐仁、マニュエルヤン
発行=岩波書店
このブックレット、ブックレットにしては高度な内容を含んでいて、充分な読みごたえがあります。
発言者はみなそれぞれに経験を積んできた中堅です。交わされている議論は若すぎず、古すぎず、この10年間に取り組まれてきた具体的な実践の成果を出しています。
教育政策が、労務政策と戦争政策に包摂されてしまう時代を、よく描写しています。
本書は現代の教育問題を考えるための基本文献になると思います。
さて、お礼のあいさつはここまでにして、本題。
教育政策と労務政策と戦争政策とを結びつけ、明解に表現しています。そうであるのにどこか、議論を寸止めにしているという感が、ぬぐえない。喉元まで出てきている言葉を呑み込んで、なにかに忖度している感が、あります。
「戦争と学生」、「経済的徴兵制」、いいんですよ。いいんだけれども、しかしもう一言、言わなければならないことがあったでしょう。
「放射能と学生」、でしょう。
これを言わないと。
登壇者の白井聡くんは、持ち前のコピーセンスを発揮して、「馬鹿はすぐ死ぬ」と言っています。トルストイを引用して。そのとおりです。「馬鹿」は安い愛国心にとりつかれて、真っ先に死んでしまうんです。そうやって「馬鹿な人」が無残に死んでいくのをどうやって止められるのか、考えようと、白井くんは言うわけです。まったくそのとおりです。
で、そうした構造を、いま如実に体現しているのが、学生の被曝者です。
放射線被曝に対する感受性は、若ければ若いほど強い。若者は放射線の被害を強く受けてしまう。だから、学生や若者たちはとくに放射線から防護されなくてはならない。これは2011年以降に常識となったものです。
こうした認識が一般的に共有されていながら、学生を福島に連れて行った教員がたくさんいたのです。米軍や自衛隊でも躊躇するような汚染地域に、マスクもゴーグルもなしに飛び込んでいった(飛び込まされた)学生がいたわけです。高い学費を払って、将来の展望もなく、ただ「社会活動の実績」をつくるために、「復興」ボランティアに動員された学生たちがいた。頭のいい学生は、行きません。親がしっかりしている家庭なら、行かせません。頭が弱くて、親がしっかりしていない、社会的に不利な位置におかれた学生が、福島のボランティア活動に動員されていったのです。
彼らは、現代の「入市被曝者」です。これはのちのち大問題になります。「経済的徴兵制」の残酷さは、すでに福島「復興」政策にあらわれています。
このことを言いましょう。
提案です。学生を搾取するボランティア活動を、告発し、弾劾していきましょう。
2017年8月11日金曜日
2017年8月8日火曜日
立ったままで歌を歌おう
東京で闘病していた松平君が、今朝、亡くなったそうです。
私は東京には行きませんが、名古屋から冥福を祈ります。
若くしてガンを発症し、闘病のなかで放射能汚染問題を告発した人間がいたこと、
2017年の8月に彼が逝ったことを、忘れないでいよう。
彼と、彼の友人のために、歌をたむけます。
立ったままで歌を歌おう
犯されたこの大地が
自由の中に生まれ変わる
その日がやがて来るまでは
このまま歩き続け
闘いの火を燃やそう
ヴィクトル・ハラ
2017年8月4日金曜日
3・11 言説の物神性
高橋哲哉という学者が『犠牲のシステム』と言ってみたり、小倉利丸という学者が「福島の悲劇」と言ってみたり、こうした現象について、深夜のデニーズで討議しました。
「犠牲」や「悲劇」といった言葉が選択されるのは、なぜなのか。どのような力学がそれをさせているのか。
ざっくばらんに言えば、我々の感覚からはほど遠い、まるで宗教者のようなやり方です。まず唯物論的でない。弁証法的でもない。思考を明晰にするのではなく、かえって蒙昧のなかにおいてしまう、言葉。バズワードですね。学者の仕事としては、ちょっとありえないやり方ですよ。ねえ。創価学会じゃないんだから。
高橋哲哉はデリダ読みですから、つまり形而上学批判という看板の形而上学なので、これはまあ、ありそうな話です。しかし小倉利丸は経済学者ですから、彼の口から「悲劇」という表現が出てくるのは、不思議な話ではあるのです。学術的にどのような文脈があって「悲劇」という表現を容認したのか、小一時間問い詰めてもよい話なのです。
まあこの件は些事と言えば些事なので、夏の集会のあとに、やります。
物を書く人間が、言説という商品の物神性にどれだけ依存しているのかについて。
ちゃんとやらないとですね。
名古屋共産研、夏の集会
今月19日、名古屋で集会をやります。名古屋共産研が主催する2回目の集会です。
今回は、ゲストにゴフマン研究会の蔵田計成氏を招き、討議をします。議論の内容を深めるために、セミクローズで行います。この議論に参加したい方は、集会案内を送りますので、ご連絡ください。
名古屋共産研 8・19集会
『 放射能安全神話を解体するために 』
<プログラム>
13時~
報告1
蔵田計成氏(ゴフマン研究会)
『 ALARAのイデオロギーとその歴史 』
報告2
矢部史郎(名古屋共産研)
『 放射線防護のシャドウワーク~「経済合理性」は何に寄生しているか 』
(休憩)
14時30分~
自由討論
17時 閉会
17時30分~
参加者交流会
2017年7月28日金曜日
闘争の時間を意識すること
まずはじめに、中国の思想家孫子の、有名な一節を参照することから始めよう。
孫子曰く、
「百戦百勝は善の善なるものにあらず。戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり。」(謀攻篇)
中国史に親しんだことのある人なら、一度は耳にしたことのある一節だろう。
敵と会戦をして勝利することが最善なのではない。そうした勝利は、自軍の将兵にとっては手柄をたてるチャンスであるかもしれない。だが、大局的観点で戦争を考えるなら、会戦とはあくまで次善の策にすぎないものである。目指すべき最善の勝利とは、敵軍にも自軍にも会戦の機会を与えずに、目的を成就することである。
現代人は、戦略という概念をもっていて、戦術的勝利と戦略的勝利とを分けて考えることができる。だから現代の我々は、この一節をあたりまえのこととして、つい聞き流してしまう。だが、もうすこしここにとどまって、この一節が何を言っているのか、掘り下げて考えてみよう。
戦争を考えるなかで、孫子は重大な発見をしている。その発見とは、ある部隊、ある軍団、ある旅団が、戦うことなく敗北することがある、という事実である。敵と戦って敗北する、というのなら、まだ素人にも想像できる素朴な話である。だが現実の戦争はもっと複雑だ。現実の戦闘では、戦わないで敗北する、戦う機会すらつくれずに敗北する、ということがあるのだ。
孫子の兵法が卓越しているのは、軍の姿を静的に捉えることをやめて、軍の行動可能性に着目したこと、軍事行動を動的編成として把握したことである。言い換えれば、軍をもっぱら空間的に把握することをやめて、時間の観点を導入したことである。
軍事力とは、兵員の数や武装の質といった、目に見える威容のことではない。軍事力とは、戦況によって刻一刻と変わる、軍の行動可能性、潜在的な可能性の総体である。軍事の核心は、今日の戦闘でどれだけ戦果をあげたか、ではない。今日の戦闘を終えたあとに、明日、明後日、翌週、どのような行動をとることが可能になっているか、である。今日の戦闘によって、明日以降の行動の選択肢が増えているかどうか、その潜在的な可能性の推移が、軍事の核心である。
こうした観点にたって戦争を言い換えるなら、戦争とは、自軍の潜在的行動可能性を増大させ、敵軍の潜在的行動可能性を縮小させることである。そして、軍の行動可能性が最小化した究極の状態が、「戦う機会すら与えられない」という状態である。
孫子は、「戦う機会すら与えられない」という状態を、偶発的なものとは考えていない。それは、人為的に、戦略的に、生み出すことができるものである。だから彼は、むやみに会戦をするのではなく、まずは敵が身動きできない状態をつくりだせ(そうすれば自軍の消耗を回避できる)と言うのだ。
ここで孫子が要求しているものについて、もう少し考えてみよう。
孫子は、戦争を静的にではなく動的に、空間的にではなく時間的に、把握しようとした。戦争の思考は、兵員数や占領地域といった、空間的な把握によって足りるものではない。戦争を考えるということは、戦争の時間を考えるということだ。
孫子にとって、戦争の空間的要素は、時間に置き換えられるものである。兵員数も、地形も、風向きも、すべて時間に置き換えて把握されるべきである。軍師は、軍の空間的な配置を設計しなければならない。だがそれだけでは足りない。軍師が空間的な配置を通じてさらに考えなければならないのは、軍の時間的な配置を設計することだ。時間の配置とは、敵軍が攻撃にでる機会を封じ、自軍が攻撃する機会を最大化することである。孫子が要求する軍略とは、空間に働きかけることではなく、時間に働きかけることである。
戦争は、究極的には、偶発性に支配されている。のるかそるか、出たとこ勝負であることを避けられない。だが、軍略はその場しのぎではいけない。自他の軍が、明日、明後日、翌週に、どのような時間を経験することになるのかを、あらかじめ考え、配慮しなければならない。軍事行動の持続を考えること、自軍が潜在的な行動可能性を再生産できるようにしておくこと、さらには、潜在的な行動可能性が拡大再生産されるような機会をつかむことである。
小さな局地的戦闘が、その戦術的勝敗の結果によらず、戦略的優位性を生み出すということがある。自軍の潜在的な行動可能性が拡大するという展開である。そうした仕方で戦闘の再生産が始まったとき、敵は戦うたびに追い詰められ、打つ手打つ手が自軍の勝利に結びついていく。孫子によればこれは、賽の目を転がすような偶発的な出来事ではない。勝利の条件は、会戦の前にあらかた決まっている。その条件は、戦争の時間(持続)を意識する者だけが把握できるものである。
さて、ここまでは前振りです。
紀元前に書かれた孫子の兵法が、現代にも読み継がれているのは、なぜでしょうか。その最大の理由は、孫子が徹頭徹尾世俗的で、現実主義だからです。
古代から現代にいたるまで、戦争は信仰と結びつけて遂行されてきました。戦争はしばしば神頼みであったり、神の意志と考えられたり、「聖戦」とされたりするものでした。
孫子は、戦争と信仰とを切り離し、徹底的に世俗的な冷めた視点で、戦争を考えました。孫子にとって、死は無価値です。生きることだけが価値です。自己犠牲を神聖化したり、戦死者を「英霊」としたりするような宗教的行為は、孫子がもっとも嫌うものです。そんな馬鹿なことをしている人間は、戦争に勝つことはできないのです。
戦場におかれた人間が考えなければならないのは、まず第一に生き延びることです。生き延びることができなければ、次の作戦を遂行することができないからです。生きることは、潜在的な行動可能性を保持することです。
孫子が現代に生きていたら、もっと冷酷にこう言うかもしれません。逆もまた真なり、と。潜在的な行動可能性を保持できていないのなら、それは死んだも同然である。死んでいない、戦闘態勢にある、というだけでは不充分、どのように闘うかという選択肢を複数もっていなければ、存分に生きているとは言えない、と。
私は2011年の3月に東京を離れ、多くの友人や同志に、東京からの撤退・移住を呼びかけてきました。私の行動を見て、「矢部は戦線を離脱した」と捉えた人々もいたかもしれません。それは誤解です。私はこの6年間、一度も戦線を離脱したことはありません。私は東京で行われる局地的な作戦に合流しなかったというだけです。あの首相官邸前の、反射的で長期的視野を欠いた行動に、合流する気にはなれなかったのです。2017年のいまだから言いますが、大方が予想したとおり、東京のお祭り騒ぎは終息しました。
我々と日本政府との闘争は、これからが本番です。
この闘争は、闘争の時間を意識し、闘争の再生産を意識したものになります。まずは、汚染地域を避けて、生きのびることです。私たちは生きて、子供たちに伝えていくのです。そして、新たに戦線に加わる若者たちと共に、新しい作戦を次から次へと立案しなくてはなりません。
いまも東京にとどまっていて、手も足も出ない状態だと感じている人は、ただちに移住をするべきです。すでに大阪では、新しい運動が始まっています。大阪への移住を推奨します。
2017年7月14日金曜日
2017年7月11日火曜日
いわき市の木材ペレット工場が計画断念
<遠野興産>国内最大級ペレット工場建設中止木材チップなど製造の遠野興産(福島県いわき市)が、福島県いわき市遠野町上遠野で2月に着工した国内最大級の木質ペレット工場の建設を中止する方針を固めたことが4日、分かった。住宅や学校に近く、24時間稼働に伴う環境悪化を住民が懸念。東京電力福島第1原発事故の影響で、木の乾燥用ボイラーの排ガスに含まれる恐れがある放射性物資を不安視する意見も根強かった。
◎放射性物質に住民懸念
工場は地元産などの未利用木材を活用。破砕・圧縮して粒状にした木質ペレットを年間最大約3万トン生産し、主に石炭火力発電所の混焼燃料向けに供給する計画だった。
中野光社長は取材に「住民の皆さんの理解を得られないと判断した。全国から見学者が来るような工場だったが残念だ」と述べた。
計画を巡っては6月、住民らが「遠野の環境を考える会」を結成。住民集会を開いたり、反対署名を集めるなどしてきた。
約250人が参加した集会では、「なぜ地区の中心部に造るのか」といった声が続出した。福島県内の樹皮や皮付きチップを1日約40トン燃やして木の乾燥に利用するボイラーに関して、「(放射性物質濃度が)基準値内と言っても理解されるのか」といった指摘も出た。
会社側は、濃度の低い樹皮などを使い、フィルターによる処理も行うため、排ガス中の放射性物質が検出限界値未満になることや監視態勢を説明。6月下旬には操業中の別の工場見学会も開いたが、賛同は得られなかった。
考える会会長で地元行政区長の山村全信さん(69)は「苦渋の決断をしてもらった。遠野興産は地元企業。今後はまちづくりで協力したい」と話した。
計画は事業費約20億円。国の津波・原子力災害被災地域雇用創出企業立地補助金で半額を賄う予定だった。同社は今後、木質ペレット製造の新体制や工場予定地の活用法を検討する。
ペレットの需要はバイオマス発電の拡大を背景に増大しているが、安価な輸入品の利用が多い。国産の競争力向上には生産規模の拡大が必要といわれる。(河北新報 2017年7月5日)
このニュース、朗報なのだが、気になるのは中止決定の速さである。
6月に住民の反対集会があり、翌月7月には計画中止を発表している。速い。
もともと成立する見込みのない計画だったということだろうか。
詳細はわからないが、「復興」政策の無計画ぶりをあらわすエピソードだ。
2017年6月30日金曜日
科学論争ノート1
科学論争ノート
1
2011年の放射能汚染を境に、原発の安全神話は強化された。
2011年以前、原子力発電の安全論を主張するのは、政府、推進議員、電力会社などに限られていた。
2011年以後、「原発の安全神話」は崩れたかにみえたが、今度は「放射能安全神話」があらわれた。2011年以後、放射能の安全論は、政府や電力会社だけでなく社会全体を巻き込む厚みをもったものになっている。
2
日本政府には放射線被曝をめぐる科学論争に加わる資格がない。放射線被曝による人体影響が証明されるなら、政府はそれに応じた措置を実行しなければならない。それは最大4千万人の人口を汚染地域から退避させるという事業を想定しなければならないものである。現在の日本政府には、これだけの規模の退避措置を実行するだけの政策的・政治的条件がない。日本政府には、放射線の人体影響について科学的に導き出されうる結論を受け止める用意がない。この科学的に導き出されうる結論にむけた準備、つまり、公衆の大規模退避措置を準備できない政府は、汚染をめぐる科学論争に加わる資格はない。
3
放射能汚染をめぐる論争は、放射線防護措置をネグレクトするための論争になっている。国家は国民の生命を保護するためでなく、その保護責任を回避するために、偽の「科学」論争に臨んでいる。放射線の人体影響をめぐる「しきい値仮説」のような珍説の導入は、政府が公衆の放射線防護義務を放棄しようとする意志をあらわしている。たった数名の御用学者と検討会によって、日本政府の責任が免罪され、夜警国家化(最小限の政府)が実現されている。
4
放射線防護措置のネグレクトは、「科学」論争という見せかけによって、政策的な論争を回避している。政府は「公衆の防護措置をしない」とはっきりと明言するのではなく、論争の体裁をとることで結論を宙づりにし、あるいは先延ばしにするのである。この「科学」論争は、茶番である。
5
放射線をめぐる科学論争に真正な態度で関与しうるのは、どんな破局的な結論にたいしても対策を準備している個人である。彼女らは国による措置を待たず、自力救済によって防護策をとった。彼女らは日本政府が破産する事態を想定しているし、場合によってはこの国を離れる覚悟もしている。この、2011年以後に広範にあらわれた一般的な態度を、“科学的無政府主義”と呼ぶことにする。
6
地方公共団体は、政府による偽の「科学」論争と、市民による“科学的無政府主義”との狭間に立たされている。地方自治は、放射線防護対策の重要な焦点になった。直接的な土壌汚染を免れた地域では、自治体の独自の判断で、給食材料の産地規制を実現しているケースもある。
7
社会民主主義諸勢力は、国民国家を前提にして運動を想定するという限界を抱えているために、勃興する“科学的無政府主義”または“無政府主義的科学主義”を前に腕をこまねいている。社民主義諸勢力は、日本政府の夜警国家化と、市民の“科学的無政府主義”との狭間で、国民国家存続の幻想を護持しようとする。この幻想の護持は、政府がしかける偽の「科学」論争を支えることとなる。つまり、社民主義諸勢力は結果として、夜警国家化の成立に加担することになる。
8
市民による“科学的無政府主義”は放射線被曝の予防に努める。これにたいして日本政府は、クリアランス概念を最大限に拡張し、防護措置の放棄をはかる。クリアランスとは、統治の技法に科学的な粉飾をあたえたものである。
9
国家の統治は、現実の全体から例外的なものを分別し、一般的なものと例外的なものとの線引きを自明なものとして確立することである。特異なもの、特異な状態を、例外として扱う。例外とは、考慮する必要のないもの、保護するに値しないもの、法の外に放逐されるものである。「科学」論争に登場するクリアランス論は、標準的な人体を設定しその空想を自明なものと信じさせることで、現実にある人体をことごとく例外にしてしまう。
10
“科学的無政府主義”は、一般的なものと例外的なものの分別を認めない。この立場はある明白な事実、すべての人体は特異であるという事実に由来する。「一般的な人体」「標準的な人体」などというものは、存在しない。すべての存在は特異であり、あるひとつの特異なものが、すべてである。一人の子供が鼻血を流したときに、その異変を例外としてみなすことに何の意味があるだろうか。そのひとつの徴候を見過ごしてしまう者は、たとえ200人の子供がガンを発症しても闘うことができないだろう。
11
社会民主主義者がクリアランス論=被曝受忍論に傾いていくのは、彼らが科学的思考に不慣れだからではない。彼らの社会的・政治的構想力が、国家を超えることがないからである。社会民主主義者は、革命的状況に際しては、その抑止、反動、反革命としてあらわれる。だから社民主義者は、日本政府とまったく同じ手つきで「科学者」を呼びクリアランス論を語らせるのである。「風評被害」の威力を恐れているのは政府だけではない。社民主義者もまた「風評被害」がはらむ革命的性格に不安を抱いているのである。
12
↑これを具体的に明記するなら、安斎育郎、小出裕章、河田昌東、などである。彼らのような受忍派の「科学者」は、反原発運動から排除するべきである。