2013年12月30日月曜日

大阪旅行


 大阪へ2泊3日の旅行に行ってきた。

 1日目は池田市の杉村昌昭さんを訪ねて、暮れの挨拶。いつもの居酒屋で「杉村派」の忘年会に参加。解散後は前瀬くんと二人で梅田にくりだし、いつものバーで飲む。

 2日目は原口くんが幹事をつとめる「都市文化研究会」に参加。私は名古屋からの報告ということで、1989年の「デザイン博覧会」やタイルメーカーのINAX(現LIXIL)がジェントリフィケーションに果たしたやくわりという、とても名古屋色の強いレジュメを出した。この会で、酒井隆史さんや福岡に移住した森元斎くんと再会。十三(じゅうそう)という街で深夜まで飲んだ。


 大阪には「キタ」と「ミナミ」があって、十三は「キタ」の中心地梅田から電車で二駅。駅の東西にアーケードがのびていて、居酒屋や風俗店が集積した歓楽街になっている。住宅も多い。ここで、駅から徒歩7分のワンルームマンションが、2万5千円。安い。東京からの移住を検討している人は、ぜひ一度、十三に行ってみてほしい。ここには都市の密度があり、万華鏡のように変化する景観がある。名古屋の街がポスト近代の特徴を強く持っているのに対して、大阪の街はがぜん近代だ。建物の遮蔽は弱く、飲み客の歓声や食べ物の匂いが街路にはみ出している。ここではただ路地を歩いているだけで、環境に包まれているという安心感をおぼえる。環境を剥ぎ取られた名古屋の街とは対照的だ。ただ、こういうあたたかい街に暮らしていると、思想の強度はいくぶんか落ちてしまうかもしれない。人間的な暮らしをしたいならだんぜん大阪、思想の強度を求めるなら名古屋の酷薄さをおすすめする。

2013年12月20日金曜日

無防備被曝の恥ずかしさ



 私はまったく知らないが、南郷某という右翼漫画家が死んだらしい。
この男は、放射性物質を放出する福島第一原発に肉薄したり、被曝を怖れるなという安全デマを漫画にしていた。排外主義で知られる「在特会」系右翼ともつながりがあるようだ。
 39歳で孤独死。こういう人間が死ぬのはよい。メシがウマイとまでは言わないが、酒席の話題にはちょうどよい。

 放射能はそれほど危険ではないという説を信じたり、放射線防護のために活動する人をバカにしたりしてきた者が、これから大量に死ぬ。これはとても恥ずかしいことだ。人間とはなんてマヌケな存在なんだろうと思う。

 私はこういうマヌケどもと同類にならぬよう、今後も気をゆるめず放射線防護を継続しようと思う。もしもいま命を失くしたら、このマヌケ右翼と同じ統計記録にカウントされてしまうことになる。そんな不名誉な扱いを受けるくらいなら死んだほうがましだ。いや、だから、死んではいけない。絶対に、死んではいけない。

 いまはどんなにバカにされても、生きよう。


 生きろ。
 


2013年12月18日水曜日

地方権力の没落過程



 大友良英の「プロジェクトFUKUSHIMA!」について、短い文章をある雑誌に送った。今の段階ではまだ雑誌名を公表できないが、順調にいけば来月の号に掲載される。この問題については、様々な要素を検討しなければならないため、何度かに分けて出していくことにした。まずは第一回分をまとめて入稿した。

 今日も山の手緑と議論しながらノートをつくっていたのだが、話題になったのは「風評被害」説の追認問題である。福島第一原発の爆発後、経済産業省と福島県は「風評被害」キャンペーンを開始した。多くの人はこの説に否定的か懐疑的かであったのだが、大友らはひじょうに早い段階で「風評被害」説を追認する。ほとんど鵜呑みといってよい早さだ。その判断の早さはなにからきているのか。

 ひとつには出身階層の問題がある。「プロジェクトFUKUSHIMA!」の呼びかけ人たちは、福島高校の出身者である。福島高校は、県を代表するトップクラスの進学校で、多くの政治家を輩出してもいる。大友と遠藤が「風評被害」説をいちはやく追認した背景には、彼らが福島高校出身者であることが影響していると考えられる。
 「風評被害」説は、その当初から政治的な態度表明として唱えられてきた。それは「裸の王様」を裸だとは言わないでくれというキャンペーンだった。はじめから無理があった。汚染調査の技法もなければサンプル採取の規則すら確立されていないなかで、安全性をめぐる議論ははぐらかされ、たんなる政治的要求にすりかえられてしまう。「絆」「応援」「東北を差別するな」と。
 私の友人の観測では、この件をめぐって「東北差別をするな」と声高に叫んでいるのは、仙台一高の出身者である。これは目立つ。たとえば朝日新聞の樋口という記者は、二言目には「東北差別ガー」とまくしたてるので(しかもフェイスブックで)界隈ではとてもうざがられているのだが、彼は仙台一高出身である。
 私は愛知県立旭丘高校(旧制・愛知一中)に通っていたから、こういう「地方エリート」を知っている。彼らは、県庁や銀行や大企業の椅子を約束された、地方権力の「遺産相続者」たちである。「中央」とのパイプも太い。彼らが下々の人間のことを真剣に考えるとは思われない。彼らを突き動かしているのは、己の遺産の喪失を阻止することだ。

 放射能汚染は人々から奪う。奪われるものが大きい者と小さい者とがあって、大きく失う者たちは、声を荒げて「反差別」を訴える。

 そして国にも地方権力にも代表をもたない階級は、移住を開始する。このとき、「プロレタリアに祖国はない」ということがたんなるお題目でなく事実として実践される。
 労働階級に「ふるさと」はない。それは没落する階層のみる幻想だ。

2013年12月11日水曜日

”残酷さ”について


 フランスの反核グループが私にインタビューをしたいということで、スカイプをつないで2時間ほど話をした。海外の活動家と議論して有益なのは、自分の考えていることが整理されていくことだ。外国人には、こちらがあたりまえに感じているニュアンスが伝わらない。問題の構図を明確なかたちで言葉にしなければ、何が起きているかを説明することもできない。これは子供に話をすることと似ているが、子供を相手にするよりもずっと抽象度の高い踏み込んだ議論ができるので、楽しい。外国人と話すことは、自分のためになる。

 今日の議論で、私の口から出たのは、“残酷さ”という言葉だった。「私たちは現実の残酷さを受け入れるか否かで迷っている」と。自分でも驚いた。こんな言葉が自分の口から出てくるとは思わなかった。
 彼らの質問はとてもシンプルなものだった。「なぜ汚染地域からの退避が遅々として進まないのか」というものだ。その要因はなにか。さまざまな事実をあげ、問題の構図を示し、状況を説明していった。しかしなにかが足りない。なにか言い残していると感じて、最後に、“残酷さ”という言葉が出た。

 放射性物質の拡散は、大量の死者をうみだす虐殺行為である。それが1万人の規模なのか100万人の規模なのかはまだわからないが、これから多くの人々が理不尽な死に方をして、我々はそれを目の当たりにすることになる。放射能汚染は、残酷である。
 そしてそれにもまして、移住は残酷な決断である。
 私は事件が起きた2週間後に、東京から名古屋に移住することを決めた。私は私自身が率先避難者になることで、問題解決の方向性を提示したのだが、このことは同時に、これまで付き合ってきた東京の人々に死を予告する行為でもあった。「ボンヤリしていると死ぬぞ」と、宣告したのだ。それに応えてある人は「全員が移住できるわけではない」と言う。そして私は言う。「全員は生きられない」と。

 フランス人は私の心理状態を指して「罪悪感」という言葉を出してきた。私は少し戸惑った。この表現は、不当だが、正しい。正しいが、不当だ。
 私がこの事態に際して罪悪感をもつ理由はない。原子力政策を決定・推進したのは私ではないし、放射性物質を撒き散らしたのも私ではない。今回の原子力公害について私はもっぱら被害者である。まずはこの単純な事実を確認しておきたい。小出裕章にかぶれた爺婆が「原発を止められなかった私たちにも責任がある」とつぶやく。私は明確にそれを否定する。必要なのは自分が被害者であるという自覚と、被害者を結合する階級意識である。私たち被害者が、自責の念にかられたり罪悪感を抱いたりすることは、支配と被支配の敵対関係を曖昧にする倒錯であり運動破壊行為である。私は小出裕章を許さないし、反核運動は小出的傾向を排除しなくてはならない。
 しかし。
 私がこれまでこうしたことを歯切れよく語ってきたかというと、そうではない。小出に対する批判は2011年の秋の段階でおこなったが、それは、彼らの心理状態や共有されている感情それ自体を批判するものではなかった。そこまで踏み込んで言及するには、1年の時間がかかった。また、「移住するなら仲間と一緒に行きたい」という者に対して、「全員は生きられない、残るという者は置いていけ」と言うまで、2年の時間がかかった。
 なぜ、こんなに時間がかかってしまったのか。罪悪感などというものから身を引き離して生きてきた私が、こんなにも長い時間を費やしてしまった。歯切れよく語るには躊躇するなにかがあった。足元につきまとうなにかがあった。それを「罪悪感」というなら、もしかしたらそうなのかもしれない。
 しかし私は断固として否認する。そして「罪悪感」という言葉にかえて、“残酷さ”と言う。
 私は、あるいは私たちは、起きている事態の残酷さに怯え、足がすくんだのだ。




 今日スカイプで話したフランスの活動家は、ドゥボールやポスト・シチュアシオニストの流れをくむ人たちだったので、「復興」政策のスペクタクルについて踏み込んだ議論ができた。短いがとても濃密な時間だった。おそらく来年は、私が直接フランスに行って話すことになるだろう。若い活動家たちは、日本の活動家の意見を求めている。それは現場からの実態報告ということにとどまらない。爆心地で生まれたあたらしい思想枠組みと、新たな対抗戦略を、求めている。責任は重大である。考えるべきことがありすぎる。

 私と山の手緑はいまこの作業を開始している。たいへんな大仕事だ。この作業に加わりたいという人、または、作業に立ち会って間近で見たいという人は、名古屋に来てほしい。

2013年12月9日月曜日

移住者たちの美しさ



 名古屋には移住者たちのNPOが複数ある。移住者支援のNPOではなく、移住者が主体となって運営されているNPOだ。そのうちの一つに私は参加していて、といってもあまり熱心な会員ではなくて、もっぱら飲み会に参加しているだけのぐうたら会員だ。
 昨日は名古屋市内の会場に集まり、小さな子供たちのためのクリスマスパーティーと、大人たちの忘年会が催された。移住者をとりまく状況は深刻で息の詰まるものだが、飲み会はとても盛り上がった。

 女性たちが美しくなっている。何人も子供を産んだ母親たちが、まるで20代のように若々しくなっている。このグループがつくられてからの1年間で、驚くほど変化した。育児に忙殺され疲れているはずのひとたちが、どんどん若くなり、美しくなっている。
 なぜ彼女たちは美しくなったのか。

 ひとつには状況がそれを強いたということがある。彼女たちは新しい土地で生きていくために、美しくならなければならなかった。人並みに美しいというのでは足りない。味方になるものがほとんどいないなかで、他人を惹きつける美しさを身につけなければならなかった。

 もうひとつは報復感情である。彼女たちは生活の基盤を奪われ、ほとんど裸同然の状態で焼け出されてきた。職場でも、地域でも、家族や親戚にも理解されず、まったく孤立した状態で移住を決意した。このとき移住者は、「絶対に幸せになってやる」と、固く胸に誓う。これはただ救済をもとめているのとは違う。移住者にとって「幸せになる」こととは、それ自体が、自分を踏みつけにした社会への復讐なのである。だから私たち移住者は、白髪交じりの疲れた顔で惨めな姿をさらすわけにはいかない。それは敗北に敗北を重ねることになる。政府と東京電力とこの社会全体に報復するために、移住者は強い目的意識を持って美しくなっていく。
 彼女は美しさに磨きをかけながら、報復の機会をうかがう。
 まるで全ヨーロッパを敵にまわした近代海賊のように。


 いま名古屋には海賊のような主婦が徘徊している。

2013年12月7日土曜日

『 a sick planet 』を入手



 パリ在住のSさんに奨められて、ギー・ドゥボールの未邦訳本を入手。
 Guy Debord『 a sick planet 』(英語版)を買った。
 これはドゥボールが原子力問題について書いた文章。フランスでは2004年に出版されている。シチュアシオニストはどんな角度から原子力体制を批判したのか。とても興味深い。


 本が届いて見てみたら、表題の「 a sick planet 」 は15ページほどの短い文章。
 日本語訳ができたら、このブログで紹介します。


追記

 菰田真介くんと猿飛僧助さんが翻訳してくれました。
 日本語全文はこちら

2013年11月15日金曜日

大友良英のなにがダサいか



 大友良英、遠藤ミチロウ、和合なんとかというのがやっている「プロジェクトFUKUSHIMA!」について、検討した。ボイスレコーダーを用意して、私と山の手緑とでコメントを収録。これから文字に起こして文章化する。
 “矢部史郎+山の手緑”という名義で文章を出すのは、たぶん10年ぶりになる。まずは肩慣らしに大友良英と遠藤ミチロウをやりだまにあげる。プロジェクト「FUKUSHIMA!」の問題を一言で言えば、「みんな、ひとつになろうよ」的な、幼稚な基調にある。無能が頭数を揃えてひとつになったところで、放射能との闘いは前進しない。福島復興などできようもない。
 この無能たちによる失敗は、「アーティスト」を自称したからといって免罪されるものではない。そもそもアートが人々に教えるのは、「みんながひとつになる」みたいな学校くさい話ではない。アートが教えるのは、「誰もがひとりになることができる」という孤立の技法である。人々がアーティストに敬意を示すのは、彼がただひとりの者として力を表現するからだ。

 いまアーティストが言うべきは、「みんなひとつになろうよ」ではなく、「たったひとりになれ」だ。孤立することは無力になることだというのは、学校が教える迷信だ。現実はその反対に動いている。
 孤立は力の源泉である。
 大友や遠藤は、このことを知らない。


2013年11月13日水曜日

『風景の死滅』と海賊


 献本を二冊いただいたので、紹介します。




『風景の死滅 増補新板』 松田政男著 航思社

 1970年代、時代を切り裂いた伝説の書『風景の死滅』。復刊です。
 田畑書店から刊行されたオリジナル版に、雑誌『映画批評』の論考などを加え、増補新版として刊行されました。表紙オビの写真は中平卓馬氏。平沢剛氏の解説も戦闘的。
 2004年に雑誌のインタビューで出会って以来、松田政男氏にはさまざまなかたちで支援していただいた。2008年の洞爺湖サミット反対行動は、実はその背後で松田氏が協力していたと書いたら驚く方もいるかもしれない。活動家の中には「だまされた!」と怒り出すむきもあるかもしれないが、事実としてはそうだ。老アナキスト松田政男は21世紀に入ってもなお現役であった。私は松田氏と距離をとってつきあってきたつもりだが、まったく影響を受けなかったというと嘘になる。彼はひとから見えないところで動き、短く決定的な助言をのこす。権力の現代性を深くえぐりだす。私の原子力都市論や海賊研究も、彼の「風景の死滅」論と無縁ではありえないだろうと思う。







『海賊旗を掲げて ――黄金期海賊の歴史と遺産』 ガブリエル・クーン著 菰田真介訳 夜行社

 以文社から発売された『海賊ユートピア』につづき、海賊研究第二弾。
 アナキストはなぜ海賊に共感し、海賊になにを見出すのか。
 かつてナチズムに抵抗する青年運動が「海賊団」を名乗った時代があり、大戦後には「海賊出版」と「海賊放送」に精力を注いだ時代があり、さらに現代のアナキストは著作権侵害(パイラシー)とハッキングに磨きをかける。いったい海賊のなにが継承されてきたのか。フーコーやドゥルーズ/ガタリなど現代思想の分析枠組みを利用しながら、海賊からアナキストへの思想的系譜を探る試み。
 ちなみに著者のガブリエル・クーン氏は、2008年の洞爺湖サミットの際に来日していた。知らなかった。クーン氏は直接行動派が集う対抗キャンプでサッカーをして遊んでいたらしい。いまから考えればちゃんと席を用意して講義してもらえばよかったのかもしれない。が、革新的な研究者が実践においてはでしゃばらず地味に動いたりするのがアナキストの美徳。彼は本物だ。










『風景の死滅 増補新版』で解説を書いた平沢剛氏が名古屋に遊びに来たので、海賊翻訳者の菰田氏を呼び出して飲み会をした。前瀬氏と山の手氏も加わり、ひさしぶりに普通の飲み会ができた。
 この2年半、放射能汚染の緊張のなかで、われわれはみなバラバラになっていた。バラバラになった者がそれぞれの孤独を経て再び出会うのは、楽しい。
 今から40年前、ルンペンプロレタリアート永山則夫が列島を彷徨ったのとは別の仕方で、いま私たちは列島を移動している。風景ははるか昔に死滅していて、海のように平滑な都市がひろがっている。私たちは平滑な空間に生まれ、育ち、「ふるさと」だの「風景美」だのとは無縁に生きてきた。だからいま、孤立することも再会することも自在にできるのだと思う。


おまけ 
平滑空間の名曲 ワールズエンドスーパーノヴァ


2013年11月1日金曜日

孫子、なぜ書くのか



 私自身について言えば、なにかを書く理由がなくなった。私がわざわざ書かなくても、わかっている人はわかっていて、各々のおかれた条件のなかで問題解決に向かっている。私がでしゃばって号令をかけるような状況ではない。また、放射能が危険だという話をいくら書いたって、読めない人間はなにも読めないわけだから、言うだけ無駄だ。
 事件から2年以上たって、切迫感が薄らいでいる。どうせ全員は生きられない。生きる者は生きるし、死ぬものは死ぬ。罪のない子供が殺され、見殺しにされ、殺した者たちが自分こそ被害者だと言い立てるのだ。まあそういう展開になる。
 状況を客観的にみれば、私が何かを書く理由はない。粛々と移住支援に取り組めばよい。ただそうした判断と同時に、もっと書こう、もっと書きたいという気持ちが高まっている。そんな必要はないのに。これはなんだろうなと考えながら、いま頭をよぎったのが中国の思想家孫子だ。

 孫子は、なぜ、兵法を書いたのか。書かなくてもよかったのに。なぜ彼は書いたのか。
 「孫呉の書」という。孫子(孫武)と呉子(呉起)の兵法書を並べて「孫呉の書」とか「孫呉の兵法」と呼ぶのだが、呉子がなぜ書かれたかという理由はわかる。読んでみれば一目瞭然なのだが、呉起というのはまったく深みのない退屈な話ばかりしている。本当は孫子と並べるのが失礼というぐらいレベルが低くて、だから呉起は書かなくてはならなかった。呉起は戦争というものがわかっていない。こいつはただ田舎の秀才が出世していばり散らしたいというだけの俗物根性でものを書き、同じく俗物の官僚がありがたがって読んだというだけの話だ。呉起は書く事じたいを目的として、書くことで目的を達成してしまっている。
 孫子は違う。孫子は、深い。彼は戦争を考え抜いた思想家である。戦争の時間、偶発性、伸るか反るかの瞬間を真剣に考えた。だから彼が書くものは一筋縄ではいかない矛盾に満ちたものになる。

 孫子は指揮権は絶対でなくてはならないと説く。指揮命令系統を軽視するものは斬首。ここまでは呉起と同じだ。しかし孫子は指揮権の重要性を力説した後に、それに反するようなことを言う。「水に常形なし」、戦闘の体勢は水のように柔軟にすべきだ、と。兵の運動を水のように流動させることだ。これは、本隊から離れ、散兵したある部隊において、指揮系統から自律して行動することがありうるということだ。「水が高きから低きに流れるように闘え」と。それはよいのだ、と孫子は言う。もう、迫力が違う。

 孫子は、確実に勝てるという勝算がなければ戦争をしてはいけない、と言う。「兵は国の大事なり」。しかしそれと同時に、「兵は詭道である」とも言う。戦争とは、敵を騙し意表をつくことだ。ということは、敵に騙されて想定外の展開にもちこまれることもあるわけだ。確実に勝てる戦争などない。慎重に慎重を期しても、どこに落とし穴があらわれるかわからない。
 この兵法書を忠実に読むならば、誰も戦争などできなくなってしまう。孫子は戦争に勝つための方法を書いているように見えて、実際には、戦争がいかに恐ろしく難しいものであるかを書いている。孫子がいまも読み継がれているのは、彼が誰よりも深く戦争を恐れたからだろう。彼の文章を読むと、自分がまるで戦場に立たされているような緊張感をおぼえる。孫子は、ただ命令をくだす軍師の視点からではなく、戦地にたたされる兵士の視点で、戦争を考えている。だから彼は「百戦百勝は善の善なるものにあらず」、最上の勝利は戦わずに勝つことだ、と言うのだ。

 もうひとつ。
 孫子13篇のなかで、あまり目立たないけれども心に残るのは、火攻篇である。この章では、火攻めを決行する条件を細かく指定したうえで、「敵の風上に火を放ち風下に向かって攻めよ」と説いている。なにをあたりまえのことを、とも思う。しかしこういうあたりまえのことを、孫子は書かなくてはならなかった。おそらく彼は目撃していたのだ。風向きを確認せず安易に火を放つバカ指揮官を。指揮官の無能のために火に包まれて死んだ若い兵士を、見たのだ。

 孫子はけっして戦争を美化しない。その反対に、戦争にたいする恐怖と怒りを吐き出している。
 火攻篇を書いたところで、死んだ兵士は生きかえらない。
「兵は詭道だ」と書いても、戦争はなくならない。
 しかし、孫子は書いたのである。怒りがおさまらないのだ。


2013年10月26日土曜日

ポスト近代、または「原子力都市」としての名古屋




 今日は、東京から避難した前瀬くんの引越しを手伝った。私の姉が提供してくれた客用の布団ひと組と、東京から持ってきた大きなスーツケースを車に積み、名古屋市内のワンルームマンションに運び込んだ。

 彼の口から出る言葉は、良い意味で緊張感がみなぎっていた。この二週間、彼は名古屋市内を散策し、毎晩うちに帰ってきては酒を飲みながら意見を交わした。はじめの数日間、彼は放射線被曝のストレスから解放され、おおいにはしゃいでいた。次に、名古屋が意外に利便性の良い暮らしやすい街であることを知り、喜んだ。そうして二週間たったいま、名古屋という都市のもつ恐ろしさに気がついた。

 名古屋は都市文化の成熟を許さない街である。ここで多くの人々が錯覚するのは、名古屋が「田舎」であるという表面的な印象である。名古屋は「田舎」だから文化が未熟なのだ、と考えてしまう。そうした見方は、原因と結果を取り違えている。名古屋という都市には、人々の意識を眠らせ、都市文化を未熟なままに留めおくための物質的・イデオロギー的装置があって、その結果として「田舎」という印象が生まれるのである。たとえるなら、映画『マトリックス』が描く人間電池のように、人々は眠りながらユートピアを生きる。東京と名古屋を比較した時に、名古屋の人々が人間的に幼く未熟であるというのは、その文化が東京よりも「遅れている」からではない。そうではなくて、名古屋は東京に先んじて、ポスト近代の都市を実現しているために、人々はいつまでも幼いままに留めおかれるのである。文化が「進んでいる」とか「遅れている」というときに、その時間軸を反転させて考えなければならない。「名古屋には近代の熱がなく、傷もない」というのは、この都市がはるか昔にジェントリフィケーションを完成させ、近代を精算したからである。ここにはもっとも進化したユートピアがあり、ディストピアがある。



 放射能汚染から逃れるという意味で、前瀬くんは安全地帯に撤退することができた。
しかしそれとはまったく別の意味で、彼は「原子力都市」の最前線におどりこんでしまった。
 大変だ。

2013年10月24日木曜日

移住のアナキズム



 「復興」政策は現在、汚染地域での除染事業を行っている。しかし多くの人々が指摘するように、除染は不可能である。膨大な放射性物質を回収・管理する技術はない。
 汚染地域が元の状態に回復するには、放射性物質が自ら崩壊するのを待つ以外に方法がない。セシウム137という核種が消えるのに300年、ストロンチウム90290年、プルトニウムが消えるのを待つにはさらに長い時間が必要だ。
 除染が不可能であるということは、いまでは誰もが認めることだと思う。ここからもうひとつ確認するべきは、いったん汚染された地域は我々が生きるあいだずっと汚染地域であり続けるということだ。待っていても汚染は解消しない。
 だから、いま生きている人間にとって、放射能汚染を解決する方策は、移住しかないのである。各々の準備が整いしだい、西日本へ向かうべきである。

 現在の日本社会は、除染が不可能であることを共通の認識としながら、移住を決断できないでいる。移住という実践にとって、社会などなんの頼りにもならない。いま頼りになるのは、自分自身の決断と、アフィニティグループ(類縁グループ)の援助である。社会運動が群れをなして「反原発」を唱えても、そのことで汚染問題が解決されることはない。政府が除染事業によって時間稼ぎをしているのと同様に、社会運動は既に無効になった「社会」を信じて学級会を繰り返しているにすぎない。いま必要なのは、そうした非力な運動もろとも解体する直接行動である。

 私はいま名古屋で、東京から移住してきた友人たちと連日酒を飲んでいる。ここで形成されるアフィニティグループは、「社会」や「運動」にとってまったくとるにたりない例外的なものに見えるかもしれない。しかし、そうではない。現在の状況のなかで、アフィニティグループにしか実践できないことがある。

いま、次の作戦を練っている。

2013年10月18日金曜日

13年10月 近況報告



 9月末。大阪の杉村昌昭氏から電話。『インパクション』誌の次号特集をやるからなにか書きなさい、と指令がはいる。「地方から日本を考える」というテーマで、締切は1010日。ちょっときつい。インパクト出版会の編集者にこっそり電話をして、本当の締切を聞きだすと、12日に印刷所に入るとのこと。本当にギリギリじゃないかこの締切。かなり焦って書いた。発売前にもういいわけをしますが、私のエッセーはちょっと推敲の足りない文章になっています。

 107日。『インパクション』誌の締切に追われながら、愛知県内の某大学にゲスト講師にいく。放射線防護の基礎知識を講義。学生の反応はまずまず。

 1013日。富山県富山市で講演。がれき焼却問題などに取り組み、いま市民測定所を準備している人たちと交流。講演では『運動と騒動 ―― 実践をめぐる二つの様式』という題で話をした。反原発「運動」と、放射線防護「騒動」の分岐について、あらためて問題整理をした。富山県は歴史に残る「米騒動」の発端となった土地。1918年の米騒動が、「運動」と呼ばれず「騒動」と呼ばれること、この騒動こそが「大正デモクラシー」の起点になったことなど、「釈迦に説法」なのだが話をさせてもらった。

 1016日。『愛と暴力の現代思想』の共著者である山の手緑氏が、名古屋市内に部屋を借りた。私と元・以文社の前瀬くん(『3・12の思想』の編集者)で、引越しを手伝う。JR鶴舞駅から徒歩五分。上前津にも矢場町にも出やすく、立地はいい。6畳とキッチン、風呂トイレ付きで、3万2千円。共益費と水道代をいれても4万円弱。安い。

 1017日。前瀬くんが名古屋市内に部屋を決める。千種にも栄にも自転車で行ける立地。キッチン・風呂・トイレ付きのワンルームマンションで、2万4千円。安い。名古屋の部屋の安さに驚く。「東京で借りたどの部屋よりも良い」(前瀬談)。初期費用が10万円未満というのは衝撃で、テンションが上げる。カギの受け渡しは一週間ほどさきになる。



 富山市から帰ってきてから、連日、飲み会になっている。山の手、前瀬、矢部で酒を飲み出すと、止まらない。連日合宿のように飲んでいるので、ちょっと飲み疲れが出てきた。今日は名古屋でコリン・コバヤシ氏の講演があるのでちょっと挨拶に行くが、また飲み会になるだろうことは必至。

2013年10月6日日曜日

「風評被害」の有効期限はいつごろか

 
 放射能汚染問題に関して、「風評被害」という言葉が使われて、2年半ほど経つ。
 いまもテレビや新聞でたまに使われているのだが、これはどうなのか。
 いつまで「風評被害」という言葉を使いつづけるつもりなのだろうか。

 事件直後、御用学者が流布させた「正しく怖れる」というフレーズは、すぐに有効期限が切れて使われなくなったのだが、「風評被害」というのもそろそろだろう。
 この2年半をかけて、政府とマスメディアが全力で払拭しようとして、それでもまったく払拭できないでいる「風評」とはなんなのか。何人もの科学者が講演や解説本を出して、市民も積極的に学習をして、そのことでかえって拡大していく「風評」とはなにか。普通に考えて、おかしいだろう。

 2年以上も経ってまだ「風評」と書く神経がおそろしい。
 被曝による脳機能障害を疑うべきだ。 

2013年9月13日金曜日

新雑誌 『HAPAX』



夜光社から 『HAPAX Vol.1』 の献本をいただきました。


著者は匿名が多いですが、内容はいいです。
ちなみに私は参加していません。


異論は、いろいろと、あります。
ただ、現在の思想のシーンにおいて、ここまで緊張感のある論点をだしているのは、他にないと思います。
賛否はともかく、必読です。

取扱書店は↓
夜光社のブログ

2013年9月11日水曜日

オリンピックがスベっている



 2020年のオリンピック開催地が東京に決定した。
都庁前ではオリンピック決定を祝い「THANK YOU」という人文字がつくられた。
集まったのは約3000人。

っておい。
3000人ってなんだ。
ひとケタ間違えてないか。
これまで8年の歳月をかけて、おそらく相当の金も使って、最後は首相や皇族までひっぱりだして、「悲願」のオリンピック開催が決定したというのに、3000人はないだろう。都民は1300万人いるんだから、最低でも1万人は動員しなきゃ格好つかないだろう。

広告会社とかイベント業者とか、なにをやってるのか。

なんか、終わってるな。


2013年8月30日金曜日

なぜ移住者は歓迎されないか



 関東・東北の汚染地域から移住する動きがすすんでいる。
 あたらしい移住先を決めてから、その土地では歓迎されたり歓迎されなかったりするだろう。多くの日本人は放射能汚染というものを理解していないし、移住者のおかれた境遇や困難を想像してくれたりはしない。甘い期待は禁物だ。

 ちょっと乱暴な比喩だが、私たちのような公害被害者のおかれた境遇は、いわゆる「殴られ妻(バタードウーマン)」のおかれた境遇に似ている。まわりの人々はまず、問題を否認する。見て見ぬふりをする。つぎに、問題が否定できないほど明白になったとき、自分が関わりをもつことを避ける。どちらの側にもつきたくないという心理が働き、被害者を孤立させることで、結果的に加害者に加担してしまう。人々は、被害者が他人に頼ることなく自力で問題を解決してくれることを願う。あるいは、問題を言いたてるのではなく沈黙することを望む。「二人で話し合ってなんとかできないのか」と。そうして問題が「二人の話し合い」では解決しそうにないことを知ったとき、最終的に、「彼女自身にも問題がある」という結論にいたるのである。

 「殴られ妻」が経験するだろう孤立を、われわれ移住者も経験する。地方都市には、論理的思考のできない人間や、おどろくほどデリカシーのない人間がいたりする。移住者の闘いを理解するものはほとんどいないと考えてよい。彼らは主観的には被害者に共感しているつもりで、結果的に加害者の側に加担するということがある。しかし、そういうがっかりする場面にあたったからといって、いちいち落胆することはない。
 無理解や排除はよくあることだ。
 日本社会なんてその程度のものなのだから、遠慮なくずかずかと踏み込んで、われわれのやり方で書き換えてしまえばよい。



2013年8月18日日曜日

移住者は何と対決しているか

 編集者の前瀬くんが東京から大阪への移転を決めたのに続き、もうひとり千葉県の友人が移住を決めた。
 彼女は9月から名古屋に部屋を借り、仕事を探す予定だ。



 放射能汚染を逃れて移住するという行為は、ある意味で出家に似ている。
 それは社会への依存心を断ち、別の社会の構成に向かう行動である。分業制と都市文化が育んできた甘えの構造から、身をひき離すことだ。

 人々が対決しているのは放射性物質だけではない。
 自分の生命を他人に委ねてしまおうとする誘惑だ。




↓「復興」政策をささえている甘えの構造

2013年7月29日月曜日

友人たちへの呼びかけ


福島第一原発から、これまでにない高濃度の放射性蒸気が出ているという情報があります。

何が起きているかは、わかりません。

東京から一時退避する人は、電話をください。

客用布団はたっぷりあります。

ちょっと旅行に行くつもりでどうぞ。

参考に http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/d9f15faaab9024fd570d080608458919

2013年7月28日日曜日

たちよみ 『被曝不平等論』


以下は、2012年7月に『現代思想』誌に寄稿したものの一部です。「被曝と暮らし」という特集に向けて、私は『被曝不平等論』という原稿を出しました。あれからもう一年も経つわけですが、あまり読まれていないようなので、後半の部分だけ抜粋して転載します。
前半は、技術的な分析、後半は社会的な分析となっています。

全文を読みたい方は、ぜひ本誌を買うか、図書館にリクエストするかしてください。


--------------------

被曝不平等論
                                矢部史郎

・放射能は差別しない?    
(略)
・希釈神話
(略)
・食品の希釈神話
(略)


・防護対策と主婦

 福島第一原発が拡散させた放射性物質は、東北と関東、中部地方の一部にも到達した。
この地域に暮らす住民は、三種類の経路で被曝する。土壌に堆積した放射性物質から浴びる外部被曝、塵やガスを通じてとりこむ吸入内部被曝、水や食品を通じてとりこむ経口内部被曝である。汚染された地域以外では、流通による二次拡散が進行している。震災がれき、リサイクル建材、農業資材、食品、医薬品が、放射性物質を運ぶ。非汚染地域で警戒されているのは、主に食品を通じた経口内部被曝である。
 政府の防護対策はまったく不充分である。一般人の許容被曝線量を年間1ミリシーベルトとしたものの、外部被曝と吸入内部被曝と経口内部被曝をそれぞれどのように評価し管理するのかについて、まったく何もできていない。(3)
 防護対策が無政府状態に陥ったなかで、市民は活発に動きはじめている。全国で市民測定所がつくられ、汚染の実態と対処の方法がインターネットをかけめぐっている。そのなかで防護対策を牽引する最大の主体となっているのは、主婦である。
なぜ主婦なのか。考えられる理由は四つある。

理由の第一は知性である。
放射線防護対策の具体的な実践は、炊事・掃除・洗濯・育児といった家事の領域での作業である。主婦は日常的に家事を担っているから、こうした作業の実際をよく知っているということがある。
主婦は毎日毎日倦むことなく(あるいは倦みながら)食事をつくり、家族の栄養管理を行っている。だから、微小な物質の蓄積が人間を活かしたり殺したりすることを知っている。放射性物質は目に見えないモノだが、これも主婦にとってはとりたてて珍しい話ではない。細菌、ウイルス、食品添加物、農薬、アレルギー原因物質、組み換え遺伝子、紫外線等々、目に見えないモノなど生活のなかにはいくらでもある。もしも「目に見えないから対処できない」とサジをなげてしまうなら、乳幼児の健康管理などとうていできないだろう。
非汚染地域の主婦が防護対策に取り組んでいるのは、それが日常の栄養管理や衛生管理を拡張することで対処可能だと見切っているからである。また、汚染地域から主婦が退避を決断するのは、彼女が防護対策の実現可能なラインを具体的に見定めているからである。彼女たちの防護対策を推し進めている第一の要因は、知性である。

第二は責任意識である。
 主婦は、望むと望まざるにかかわらず、家族の健康に責任を負っている。あるいは、責任を押し付けられている。家族の誰かが病に倒れたとき、あるいは介護が必要になったとき、その面倒な作業を担うのは主婦である。ここで「主婦」というのは、結婚している女性に限らない。例えば東京のある女子学生が危惧するのは、もしも自分の親が病に倒れたとき、おそらく弟たちは親の世話をすることを放棄してしまい、自分だけが看護の一切を担わされるだろうということだ。とくに裕福な家庭でないかぎり、看護や介護の働き手は家庭内の女性に押し付けられる。彼女は結婚しないまま一家の「主婦」となり、そのことで就職や結婚の機会を失うだろう。そうした事態を現実にありうることとして想定するか否かが、彼女と弟たちを隔てている認識の違いである。ようするに「主婦」とは、家族に不測の事態が起きたときに、その尻拭いのアンペイドワークを予約指名されている者である。
被曝医療の「専門家」あるいはICRPWHOが、放射線による健康被害は「少ない」と予測するとき、その「少ない」患者の世話を彼らが責任を持って担うことは想定されていない。その被害の結果については、患者の家族の誰かが付き添い無償で働くことを予め前提にしているのである。実際に患者が多かろうと少なかろうと、彼ら「専門家」が看護に忙殺されることはない。悲しみもなければ自責の念もない。彼らは「リスク」という言葉を好んで使うが、リスクを引き受けるのは自分以外の誰かだろうとあてにしているから、あんなにヘラヘラした態度をとれるのだ。
 主婦は、家族に何かがあったとき一切を引き受ける者である。危機を吸収する緩衝材であり、モノにたとえるなら自動車のバンパーである。彼女は、たとえ自分の責任でないことであっても、自責の念を抱きつつ無償で働くことを強いられるのである。この負荷が、主婦たちを防護対策に駆り立てている。

第三は差別である。
主婦は差別に慣れている。これは差別を容認しているというのとは違う。差別を知っているということだ。他人から馬鹿にされたり見くびられたりすることは、主婦にとっては日常である。家族から馬鹿にされることも、傷つくことではあるが、それほど驚きはない。老練な主婦から見れば想定の範囲内だ。
今回の事件で、主婦に対する差別意識をもっとも体現していたのは、広告産業である。もともと主婦は消費者として広告に慣れ親しんできた。美顔、デトックス、アンチエイジングなどの健康・美容情報を発信してきたのは広告会社であり、主婦はその情報を身近において利用してきたのである。その広告会社がある日突然、放射能を怖れず受忍せよ、と言いだしたのだ。これはあまりにも極端な手のひら返しであり、広告という事業の差別的性格を剥き出しにした瞬間であった。広告会社のアドバイスに従うなら、世の女性たちは紫外線についてぬかりなく警戒しなければならないが、放射線については受忍しなければならない、ということなのだ。これほど人を馬鹿にした話があるだろうか。これほど大掛かりであからさまな差別を私は今まで見たことがない。
差別された者は差別する者を信用しない。主婦は差別を知っていて、すぐにばれるような嘘をぬけぬけという人間を見慣れてもいるから、どういう人間を信用してはいけないかを知っている。放射能問題のさまざまな論争の過程で、政府や「専門家」の言説が次々に無効化されてきたのは、主婦が誰の言葉も信じないからである。主婦はすぐに「わからない」と言う。充分にわかっているときでも、いやわかっているときにこそ、「わからない」と言う。彼女がいきいきとした顔で「わからない」と言うとき、それはようするに「お前の口先など信用しない」という通告である。彼女たちがもつ「人を信じない」というハビトゥスは、さまざまな議論の重しとなり、盾となり、人々の混乱する意識に指標を与えてきた。これが防護対策を推進する力の一つである。

 第四に時間感覚である。
再生産(労働力の再生産)に携わる者は、時間の射程が長い。賃労働というものが基本的にその場限りの契約であり、商品経済の短期的な売買の一部にすぎないのに対して、再生産に関わる労働はきわめて長期にわたる生活経済のなかに埋め込まれている。一人の子どもを出産し、育て、一人前にするまで、20年前後の時間がかかる。引退した老人の世話をして送りだすまで、やはり育児と同じだけの時間がかかる。再生産労働は、もう嫌になったと心変わりをしても簡単にやめることができず、相当の長期にわたって関わり続けなければならない労働なのである。極端な言い方をすれば、賃労働者が時間のないユートピアを生きて時間感覚を喪失してしまっているのに対して、主婦は時間のなかに生きて時間を対象化している。例えば、セシウム134がほぼ消滅するための時間は半減期2年の10倍として20年であるが、この20年という時間を具体的な人間の時間としてイメージできるかどうかという違いだ。あるいは、10年後か15年後かに顕在化するだろう晩発性障害は、時間を忘れた鶏のような意識にとってはまったく見当のつかない話だろう。「そんな先の話は考えてもしょうがない」と。しかし、主婦にとって15年後というのは、充分に手の届く未来なのである。


・被害予測に埋め込まれた搾取
 ここまでに、主婦がもつ知性、責任意識、社会(男性中心主義社会)との敵対性、時間感覚について述べた。人工核種が人体に与える影響について、被害は軽微だろうと楽観する者たちは、主婦たちの防護活動を揶揄しつつ、実際には、彼女たちの防護活動をあてにしている。彼らは決して「防護は不要だ」とは言わない。防護の必要を認めつつ、「考えすぎだろう」と言うのだ。あるいは、「被害は多くないだろう」とは言うが、「被害はまったく出ないはずだ」とは言わない。「被害はまったく出ない」と言ってしまうと、防護対策は不要だということになってしまうからだ。
もう紙数がないので煎じつめて言うが、被害予測を過小評価する者たちは、ようするに、「防護対策は必要だが俺はやりたくない」と言っているのである。防護対策には費用も労力もかかる。身近な人間関係に軋轢を生む。長い時間を想像し、自分がこれから生きるだろう人生について深く考えなくてはいけない。そういう面倒な作業を、自分はやりたくないと言っているのだ。
放射線防護活動に働く人々は、悲観的な被害予測をたてている。この被害予測は、はじめから裏切られるべき予測としてたてられていて、10年後にあらわれる現実が予測を少しでも下回るために防護活動にいそしむわけだ。彼女たちが働いた成果は、社会全体に恩恵を与えるだろう。彼女たちが働けば働くほど、現実は想定した悲観的予測から離れていき、「被害は軽微だろう」とあぐらをかいている者たちの予測に近付いていく。彼女たちは自分自身の権利のために働くだけでなく、彼女を嘲笑して何もしない寄生者の権利のためにも働くことになるわけだ。
ここで「被害予測」とは、純粋に自然科学の領域での学説や論争というものではなくなっている。「被害予測」は、防護活動を担うのかそれともタダノリするのかという政治的駆け引きの道具になっている。市民の自主的な防護活動が揶揄や嘲笑にさらされるのは、その活動が不要だからではない。その活動に正当な評価を与えないことで、タダノリを正当化するためである。「放射能なんて俺はまったく気にしない、女房が勝手にやっているだけだ」と言えば、その一言を言うだけで、彼は面倒な作業を免除されて、安全な食事という成果だけを受け取ることができる。政府が楽観的予測をたてるのは、その予測を強弁して防護活動を非公式なものにとどめておくことで、市民のもつ資源を際限なく引き出し、本来てあてすべき予算措置をとぼけることができるからである。楽観的な「被害予測」というのは、防護対策に先だって、防護対策から独立してたてられているのではない。防護対策をどれだけ引き受けないで済ませるかという利己的な動機によって、「予測」が導かれている。この「予測」は、防護作業に関わる搾取のプロセスの一部となっているのである。
 この搾取の構造は、いまに始まったことではない。これは資本主義がもつ普遍的な構造であり、第二次大戦後の「原子力資本主義」が資本蓄積をはたすために強化してきた政治的枠組みである。乳児死亡率が下がり、教育が高度化し、再生産労働が飛躍的に発展していくのと比例して、主婦の社会的評価は下落し続けてきた。主婦の働きを正当に評価しないこと、それを公的な問題として扱うのではなく「私的」な問題に押し込めておくこと、公式ではなく非公式なものにとどめておくことが、資本蓄積の第一の条件だからである。主婦を貶め、主婦の働きにタダノリすること、この搾取を正当化するイデオロギーが階級や政治的「左右」を横断して国民的合意にまで高められることで、現代の現代的な資本蓄積が完成するのである。
 放射性物質の拡散は、この搾取の一般的構造を前景化させている。いまもっとも精力的に働いているのが主婦であり、同時に、もっとも貶められているのも主婦である。主婦に対するバッシングは、階級も政治的「左右」も超えて、社会全体に及んでいる。だから「推進派」はもちろんのこと、「反原発派」を自認する者や「左派」を自称する者たちからも、主婦の働きは正当に評価されず腫れものになっているわけだ。主婦にむけられた道徳的な断罪や貶めに加担する者が、「左派」や「女性学」を自称するなかにも紛れ込んでいる。彼らは、性差別の構造も資本主義の構造もまったく理解していないニセモノである。ニセ左翼やニセフェミニストは、主婦をたたくことが道徳的義務であるかのように勘違いをしているが、こうした振る舞いこそ言葉の正しい意味で「ブルジョアイデオロギー」と呼ぶべきものだ。それは、再生産を担うことの重責を放棄し資本主義との対決を回避したいという、自らのおびえを表明しているにすぎない。ニセモノたちがやっている主婦バッシングとは、敵前逃亡を体よくみせるための口実なのである。
 

最後にもういちど不平等の話をしよう。
被曝を受忍すると言う者は、被曝が平等ではないという事実を忘れている。それに加えてもう一つ彼らが忘れたふりをしているのは、この社会がけっして平等な社会ではないということだ。我々が生きている社会は、差別と搾取と不平等に満ちているということを、彼らは忘れたふりをしているのである。
 この原稿を書いているあいだに、私は愛知県のある大学で特別講義をした。社会福祉士を目指す学生たちのゼミだ。三回の特別講義の一回目では、放射線被曝に関するテキストを読ませ、40人の学生を4人づつのグループに分けてディスカッションをさせた。ここで私は次のような問いを投げた。

「いまから四年後に、皆さんは大学を修了し、社会福祉士の資格をとり、無事に就職することができたとします。就職してまもなく、職場の上司があなたに転勤を打診してきました。福島県郡山市で職員が不足している。無理強いはしないが、もし可能なら郡山に行ってくれないか、と。あなたは行きますか?」

 それぞれのグループで、行くか行かないかを討論させた。20分ほどの討論の結果、学生の半数が、郡山に行くと言った。この結果に私は困惑し、さらに不利な条件を追加した。

「実はその職場では、昨年度も郡山に職員を派遣していました。君たちの先輩が三人派遣され、三人とも一年で辞めてしまいました。体を壊したか給料が安すぎたのか、理由はわかりませんが、ようするに使い捨ての人員です。その穴埋めのために君たちは転勤を打診されたのです。行きますか?」

結果は変わらなかった。学生の半数はそれでも「行く」というのだ。
社会福祉士を目指す者の資質として、この自己犠牲の精神は必要なものかもしれない。しかし私が彼らに教えなければならないのは、自己犠牲ではなく、自分自身を大切にする権利意識である。「行く」という学生がいるのはいい。しかしおそらくそのなかには、「私は行かない」と言えないでいる学生が含まれている。「私は断る」「私は行かない」と言えないために、「行く」と結論しているのだとしたら、それは学生の自己責任ではなく、教師の責任である。
これからの放射能時代を生きるために、教師が学生たちに教えなければならないのは、自分をまもる人権意識である。しっかりとした権利意識を持って危険な作業を断ることができる者は、相当の防護対策を実現できるだろう。自分の権利を知らず、権利を主張できない者は、選択的に放射能を浴びせられることになるだろう。これはかつての戦争に似ている。「被曝を受忍しよう」と号令をかける老人は、実際にはたいして被曝しない。老人はずっと後方の安全地帯であぐらをかき、本物の放射能戦争を見ることがない。そして、自分の権利を主張できず人権を圧迫された若者と女性たちが、汚染地帯に赴き、あるいは汚染地帯にとどめおかれ、ケタ違いの放射能を浴びせられるのである。
 特別講義の二回目に、私は学生たちに次のような宿題を出した。

「みなさんがいま利用している学生食堂の食材について、生協はどんな防護対策をとっているか、調べなさい。この大学の保健管理を担当する部署に行き、放射線防護の取り組みと考え方を調べなさい。大学が学生の防護をどう考えて何をやっているのか、あなたたちにはそれを知る権利がある。対策に不明な点や矛盾する点があれば、自分が納得できるまで何度でも詳細に問い合わせてください。」

「国民全体で被曝を受忍する」と言うときに、国民が平等に被曝するわけではない。「みんなで分ちあう」なんてのは、まったくデタラメなおとぎ話である。

放射能を浴びせられた社会は、もとからはらんでいた差別と搾取を露出させ、強化していく。社会はこれまで以上に分化し、バラバラになり、敵対性を深めていくはずだ。いま私たちに必要なのは放射性物質をめぐる科学であると同時に、この分化した社会と対峙し、生きぬくための人権意識である。

2013年7月25日木曜日

ツイッターとその反動


 仮説としての「原子力資本主義」は、透明性と柔軟性を備えた管理型権力である。それは、主権がまるで主権ではないように振る舞う世界だ。不正や暴力はまるで偶発的な事件のように演出され、人々に追認され、支配の構造が見えなくされる。

 ところで、2011年の放射能拡散以後にあらためて考えてみるべきは、いまこの管理型権力は可能か、いまそれが実現しているのか、ということだ。
 政策の現状を離れて考えてみれば、放射能汚染という事態は、管理型権力のブラッシュアップにとって絶好の機会であったように思われる。それは人々に例外なく驚異を与え、生活の細部に浸透しつつ、生存のあらたなコードを要請するはずだ。汚染を判定するための基準づくり、リアルタイムで更新される情報環境の整備、防護対策の規格化、医療措置と保険の規格化は、人々の生に肉薄し、包摂する。ここで目指されるべき統制は、汚染被害を単純に隠蔽するのではなく、反対に汚染を摘発するようなしかたで情報を管理し、人々が自ら被害を受け入れるように仕向けることだ。汚染実態を積極的に調査し、情報環境を整備しつつ、その判定基準と作業規格に介入(独占)することだ。そうして人々に対しては自己決定/自己責任のゲームを演出し、暴力の構造を不問にさせるのだ。現在の情報技術を利用すれば、為替相場や株価情報がリアルタイムに伝達されるようなやりかたで放射能汚染を視覚化し、権威づけ、「指令なき指令」を貫徹することができる。それは旧い規律型権力では実現できなかったような強さで、より包括的な支配を形成しただろう。
 しかし現実はそうならなかった。20137月現在、日本政府は管理型権力を完成していない。民主党政権は初動の対応において管理型権力を試みようとした形跡があるが、そのあとを継いだ自民党政権はむしろ規律型権力へ退行しているように見える。政府は汚染実態を隠すことに一定の成功をおさめたが、情報を隠しているという事実を隠すことができなかった。むしろ情報を統制する政府自身の姿が白日の下にさらされてしまった。「安全・安心社会」は情報技術によって誘導・操作されるのではなく、ただたんに規範として押し付けられ、その指令のもつイデオロギーを露出させてしまっている。

 現状における管理型権力の失敗をよく表現しているのは、ツイッター(スマートホン)というメディアである。ここには、新しいメデイア技術がもつ革新性と、それにたいする反動とが書き込まれている。
 ツイッターの革新性を世に知らしめたのは、千葉県市原市のガスタンク爆発をめぐる警戒情報だった。このとき、炎上で発生した煙の危険性を伝えたのは、テレビでも新聞でもなくツイッター(と携帯メール)だった。この警戒情報を政府は「デマ」として退けたわけだが、この日から、スマートホンとツイッターは災害情報を交換する重要な手段になっていった。それはとくにマスメディアが取材対象としない郊外地域において力を発揮した。ツイッターは、地域の個別的な情報をきめ細かに伝えたのである。災害情報に次いで、各地域における放射能汚染の情報がやりとりされる。これもまたマスメディアが不可視化させたものを可視化させる働きをした。政府の広報機関となった新聞とテレビは、汚染の詳細な実態を伝えようとしなかった。いくつかの週刊誌は首都圏の汚染を実測して伝えたが、速報性ときめこまかさに欠けていた。放射性プルームは高速で、汚染濃度の分布はまだらにあらわれる。この特性によく対応したのは、ツイッターという新しい情報技術だったのである。
 ツイッターは、まず市民の自力救済を支援する道具としてあらわれ、つぎに、政府の情報統制にあらがう抵抗の道具としてあらわれた。それはいまでも放射線防護活動をおこなう人々にとって重要な道具であり続けている。政府はこの情報の流れを掌握することに失敗した。ツイッターは政府が管理することのできないものとなってしまったのだ。
 ツイッターの革新性はリアルタイムに更新される情報伝達としての利用だったのだが、これにたいする反動は、情報の解釈、議論、規範意識の表明としてあらわれた。議論の余地のないところにわざわざ議論を持ち込み、規範意識を表明する利用者があらわれたのだ。
 これは新しいメディア技術に旧い規律型権力を持ち込み、その機能に制動をかけるものだった。それは一口に言えば、ツイッターをテレビ的に解釈・運用するものだったと言える。たった140字で意見を表明したり議論をふっかけたりというやりかたは、実にテレビ的でワンフレーズ頼みの、まるでワイドショーのコメンテーターやタレント議員のような振る舞いを流行させた。ここからツイッターは中高年男性の無駄な自己主張を垂れ流す道具となる。ツイッターで表明される意見がしばしば独善的で、内省や繊細さや美意識を欠いたものであるというのは、事実である。それはツイッターというメディアのせいではない。その原因は(一部の)利用者が持ち込んだテレビ的ハビトゥスである。ワンフレーズで、粗雑で、反知性的で、無責任で、言いっぱなしであるという特徴は、その人間の内容がテレビだったからである。内省や熟考よりも、押しつけがましい精神論が勝ってしまうというのは、ツイッターの特性ではなく、テレビの特性である。

 ツイッターはその革新性のために、反動の標的となり、テレビ人間の攻勢にさらされている。ではツイッターは、旧いテレビ文化に呑み込まれ、テレビ人間に占有されてしまうのだろうか。
 そうはならない。

 現代の情報技術の起源は、米軍の核戦争体制(戦略爆撃体制)が生み出した情報技術からきている。軍事技術としての情報技術は、「CI」(シーキューブドアイ、3つのCと1つのI)という思想で表現される。すなわちCommand(指令)、Control(統制)、Communication(伝達)、Intelligence(情報取得)である。この核戦争のための情報技術から派生して、現在の民生用インターネット環境ができあがってきたわけだが、ここで注目すべきは、軍用技術から民生技術へとスピンアウトしたときに、「CI」の思想は継承されなかったということだ。軍用の情報技術においてCommand(指令)とControl(統制)は必要不可欠なものだが、民生用に転用された情報技術においてはこの二つが排除され、Communication(伝達)とIntelligence(情報取得)に純化していくのである。
 ツイッターは、テレビ的ハビトゥスに表現の場を与えつつ、それを対象化し、陳腐化させる。たとえばある有名人が亡くなったというニュースが流れたとき、「ご冥福をお祈りします」というコメントが氾濫する。ここで膨大な量の利用者が「ご冥福をお祈り」してしまうことで、そのテレビ的ふるまいそのものが戯画化され、陳腐化することになる。あるいは「ぱくツイ」という行為が流行する。「ぱくツイ」とは、他人のツイートをサンプリングし流用する行為だが、これは、「私的な表現」や「自発的な表現」に見えていたつぶやきを、広告のキャッチフレーズの焼き直しであるかのように見えさせてしまう。
 ツイッターは人間に表現させ、表現を対象化し、陳腐化のふるいにかけていく。ここに持ち込まれるメッセージ、二つのCCommand,Control)は、その内容にかかわらず、意味を打ち消され衰弱させられてしまうのである。

 菅政権がおこなった「絆」キャンペーンは、現在、暗礁に乗り上げている。その要因のひとつは、現代の情報技術のもつ遠心的性格が、「絆」というCommandを陳腐化させたからだ。いまいったいどれだけの人々が「絆」を信じているだろうか。同様に、「復興」も「福島」も「東北」も、あらゆる指令が陳腐化し、衰弱していく。政府は「復興」の号令をかける。しかし「復興」が実体を欠いた想念にすぎないものであるということを、誰もが知ってしまっている。現在の情報環境は、「復興」政策の失敗と流血をリアルタイムに伝達しているからである。
 「絆」、「復興」、そして「共同体」は、いまやマスメディアの放つイメージのなかにしか存在しない。それはメディア産業の衰退とともに消えていくだろう。


追記

 冒頭に考えた管理型権力の問題について、尻切れになっているのだが、これはやはり、「主権」を日本国家の枠で小さく考えていたのでは見えてこない問題であるだろう。アメリカ政府、そしてIAEAという大きな権力について考える必要がある。
 民主党政権による初動対応で注目するべきは、福島第一原発の収束作業を政府の事業としては引き受けなかったことがある。菅直人は東京電力の撤退を許さない一方で、自衛隊の撤退は許しているのである。このとき以来、収束被曝作業は民間事業となり、政府の責任は追及されないことになる。自民党政権も、菅直人を批判しながらこの路線を踏襲する。この決定は、アメリカ政府とIAEAにとってうれしいニュースだったに違いない。菅直人という政治家が海外で高く評価されるのは、この政策判断によるものだろう。

2013年7月9日火曜日

吉田所長は二度殺される

東京電力福島第一原発の元所長、吉田昌郎が死亡。

蓋然的に考えれば、これは業務上過失致死の疑いが濃厚な事件である。
しかし、おそらく検察はこの死を事件化しないだろうし、司法解剖も行わないだろう。

吉田昌郎は「英霊」になった。
その死の背景は誰もあきらかにしない。
彼は二度殺されるのだ。

2013年7月8日月曜日

いのちてんでんこ、あるいは、分子状民主主義



 2011年3月。東日本大震災の被害を伝えるテレビ報道のなかで、ひとりの女性が画面に映しだされる。彼女は津波を逃れて生き残った一人だ。彼女は静かな興奮を抑えながら、語る。私は介護施設に勤めていた。施設にいた老人は置いてきた。私は助かった、と。その後、全国に知れわたることになる「いのちてんでんこ」の規則である。
 「いのちてんでんこ」とは、津波災害をたびたび経験した沿岸地域で伝承されてきた避難規則である。津波から逃れるために高台を目指して避難する。このとき、誰かを助けようとしてはいけない。自分が避難することだけに専念しなくてはならない。親も兄弟も子供も、誰も助けず、うしろを振り返らず、自分の命を守るためだけに走らなくてはならない。これが「いのちてんでんこ」の規則である。
 親も子も助けず、バラバラに、「てんでんこ」にならなくてはならない。この規則は、津波災害の過酷さを反映したものだろうか。ある一面ではそうだ。津波の速度ははやく、誰かを助けている暇などない。誰かを助けようとした者が水に呑まれてしまうということは充分にありうる。津波災害から命を守るためには、人と人の助け合いということを忘れて、バラバラにならなくてはならない。
これは、私たちが通常考えている「共同性」を解除する例外的な規則であるかに見える。生命の存続に関わる非常事態だからこそ許容される例外的な規則である、と。
 しかし、本当にそうだろうか。もう少し考えてみると、「いのちてんでんこ」という規則がもつ別の側面が見えてくる。この規則が、例外的な事態から要請されるのではなく、むしろその反対に、村の日常の秩序をまもるために要請されていることがわかる。
 沿岸部の村落が津波災害にたびたび襲われるということは、津波の被害が軽微であったり、まったく被害がない場合もあるということである。このとき、避難した者も避難に遅れた者も、全員が生き延びることになる。そうして津波騒ぎのあとに全員が日常の生活に戻っていくわけだが、ここで元の生活に戻れるかどうかが問題だ。
 「いのちてんでんこ」の規則がなかった場合、人は誰か身近な者を助けるだろう。それは家族かもしれないし隣人かもしれない。しかし、すべての人がすべての人を助けるということはできなくて、誰かに助けられた者と誰にも助けられなかった者が生まれてしまう。母親が家にいた次女を抱えて避難したが、外に遊びに出ていた長女は置いてきてしまった、ということがありうる。それがたとえ偶然にそうなったのだとしても、結果として保護された娘と保護されなかった娘がうまれて、被害が軽微であった場合、どちらの娘も生き延びるのである。彼女たちがもういちど同じ屋根の下で暮らすのはそうとう難しいだろう。親と娘のあいだ、または二人の娘のあいだに、遺恨が生まれないわけがない。
 あるいはこういうことも考えられる。ある身寄りのない老人がいる。彼女は歩行が不自由であったが、隣に暮らす若い夫婦に助けられて避難することができた。この老人が自分を助けた夫婦に恩義を感じるということはありうる。若い夫婦が恩に着せるような素振りを見せなかったとしても、一方的に恩を感じることはありうる。彼女は自分を助けた夫婦に「借りがある」と感じ、あるいは、ふたたび津波が襲ったときに支援されることを期待するかもしれない。若い夫婦は、年老いた隣人を気にかけ、なんらかの責任意識をもってしまうかもしれない。あるいはその反対に、頼りにされることに疲れ、面倒だという感情を抱くかもしれない。こうしたもろもろの意識は共同体の秩序にとって破壊的な作用を及ぼす。生命をめぐって「貸し借り」の関係がうまれてしまうことは、それがほんの些細な感情だとしても、人々の関係を蝕んでいく。小さな村落の社会が健全な秩序を回復するためには、そのような「貸し借り」の感情は強く戒めなくてはならない。
 津波騒ぎのあとにどのように元の秩序を回復するか。人々は生命の危機をかいくぐったあとに、「恨みっこなし」の「貸し借りなし」でなくてはならない。そうでなければ元の生活に戻れないのである。「いのちてんでんこ」の規則が、古くから根強く伝承されてきたのは、これがただ生命を守るためだけではなく、共同体が要求する平等と無支配の秩序を維持するためにあるからだろう。
 だから、津波を逃れた女性が「老人を置いてきた」とすがすがしく語るとき、それは、自己の生命のために共同体を放棄したということではない。そのように見えるのはカメラのレンズが歪んでいるためだ。実際に起きているのはそれとは逆のことであって、彼女は自己の生命を賭けて共同体の秩序を守ったのである。だから彼女はなんのためらいもなく確信をもって語るのだ。たとえその村落が回復不能で、もう元の生活には戻ることができず離散を余儀なくされるのだとしても、それでも彼女たちの思想は生き続ける。これまでの長い時間の中で、おそらくいくつもの村が壊滅してきたことだろう。そうして村は幾度か消滅し、思想が生き続けてきたわけだ。
 「いのちてんでんこ」の伝承は、我々が考えうるもっとも古い地層に位置するものである。それは、「防災」という観念が生まれるずっと前から、さらには、この地域が歴史に書き込まれるずっと以前から、長い時間をかけて練り上げられてきたものであるだろう。この未開的特徴をもつ社会思想が、現代のわれわれに強い衝撃をもって教えるのは、共同体は不変ではないという事実である。共同体はある日突然に滅びることがある。なんの前触れもなく突然に、家族も財産も生活の糧も失なうことがある。この単純な事実を見るとき、人々は生成消滅する社会の動的性格と向き合うことになる。人間の生活が根をおくべきは、なにか確固としてみえる社会制度ではなく(それは幻想である)、社会の動的性格を踏まえ、ひとりひとりの人間が社会をどのように構成してゆくのかという原則である。
 村落をまもるためにどれだけの防災対策を施すかという議論は、思想ではない。堅牢な防潮堤の建設が人間の秩序を生みなおすわけではない。それは災害という問題を考えることを回避した結果にすぎない。真に問題となるのは次のことである。人知を超える圧倒的な力が共同体を崩壊させるとき、そこで生きる人間がもういちど生きようとするときに、どのような原則が人間を生きさせるのか、ということだ。死にさらされて生きている生命が、死の恐怖に囚われるのでなく、死を忘れてしまうのでもなく、どのように生きられるだろうか。死をめぐる感情と思考の隘路に踏み込まず、しぶとく生きていくために、どのような原則が必要なのか。この問いは抽象的な問いではない。日々の生活が要請するきわめて具体的な問いである。

20113月末。水道が汚染された東京では、人々がペットボトルの水を買い求めていた。政府とマスメディアはこれを「買い占め」と呼んで非難した。消費者を悪魔化する常套手段である。しかしマスメディアによる恫喝的報道とは対照的に、人々はそれを「買い占め」とみなすことはなかった。それはただ買い求めているだけであって、けっして「買い占め」ではない。
 このとき浮きぼりになったのは、国家の考える「秩序」と、人々の考える秩序との、噛み合わなさである。国家は人々がめいめいに実践する自力救済活動を「秩序」の障害であるとみなした。しかし人々は、てんでんばらばらに行う自力救済が秩序に反するとは考えなかったのだ。
 もちろん物資は不足していたから、すべての人に必要な量の水が行きわたったわけではない。水を買うことができず、汚染された水道水を飲んだ人もいる。にもかかわらず、人々は大きな衝突も混乱もなく、整然とスーパーの売り場に並んでいたのである。あるいはこれは経産省が行った「ただちに影響はない」という告知の効果だろうか。人々が「放射能は危険ではない」と考えたから混乱が起きなかったのだろうか。そうではない。人々は放射能汚染の脅威を知っていた。だからみなペットボトルの水を買い求めたのだ。ここにあらわれた秩序は、国家の考える傲慢な「秩序」ではなく、国家的思考の彼岸に位置する秩序である。


20136月末、東京で何人かの人々と会って、話をした。私が想像していた以上に、東京の人々はバラバラになっていた。この二年間とりくまれてきた大規模なカンパニア運動は、彼らの心をひとつに束ねるのではなく、バラバラに引き裂いていた。ちょうど一年前、官邸前のデモを「アラブの春」と重ねたり「あじさい革命」と呼んだりしたことは、もう忘れられていた。民衆運動をひとつに束ねようとしたあの熱気は、おおきな挫折感だけを残して消え去っていた。
これは、よい徴候である。
バラバラになることを恐れたり、そのことで絶望したりしてはいけない。反原連(首都圏反原発連合)は敗北した。それは敗北するべくして敗北したのだ。この事実に次の状況を拓く展望をみるべきだ。共同体を不変とみなす「民主主義」のモデル(運動のモデル)は、その無効性をあきらかにした。他方、全国で展開される放射線防護活動は、てんでんバラバラに実践され、個別に成果を上げ、着実に前進している。それは「運動」と呼ぶよりも「騒動」と呼ぶのがふさわしいやりかたで、「共同性」の解体を進行させるのだ。
この「騒動」はあらたな民主主義を産むゆりかごである。共同性に依存した「民主主義」モデルを離れて、共同性を解体する分子状民主主義を発明しなくてはならない。いまはそのチャンスである。より意識的に共同性を解体し、動員を解除し、個の自律性を高めるべきだ。その先に考えられたものだけが、今後、意味をもつことになる。


群れたい者は群れさせておけばよい。それらはじきに滅ぶ。

2013年6月28日金曜日

呼びかけ 前瀬くんと遊ぼう



 以文社の編集者前瀬くんが、この6月で会社を退職し、実家のある広島に帰郷することになりました。
 前瀬くんには思想誌VOL創刊の頃からいろいろとお世話になり、最近では『原子力都市』2010『3・12の思想』2012)も担当してもらいました。『3・12の思想』のあとがきにも書いていますが、彼は独特の嗅覚をもつ名編集者です。今回、彼が東京から退避することになって、私としてはうれしいかぎりです。

 彼には少し長い旅をするように勧めました。名古屋、京都、大阪、広島、福岡、等々、おもしろいスポットは各地にあるよ、と。せっかく失業するわけだから、家でじっとしていてもしょうがないわけで、こういう機会に各地の変態スポットを巡ってみてはどうか、と。

 そういうわけで、西日本各地に暮らすみなさんに呼びかけます。
 めしと酒と寝場所を用意して、前瀬くんを誘いましょう。
 お金に余裕のある人はポーンと交通費も出してやりましょう。
 きっとおもしろい話ができるはずです。
 話が盛り上がったら、装丁デザインの川邊くんを東京から呼んじゃったりして、うっかり来ちゃったりして、まあ夏だからそういうのもいいんじゃないでしょうか。

 さあ、前瀬くんに電話しよう。