私自身について言えば、なにかを書く理由がなくなった。私がわざわざ書かなくても、わかっている人はわかっていて、各々のおかれた条件のなかで問題解決に向かっている。私がでしゃばって号令をかけるような状況ではない。また、放射能が危険だという話をいくら書いたって、読めない人間はなにも読めないわけだから、言うだけ無駄だ。
事件から2年以上たって、切迫感が薄らいでいる。どうせ全員は生きられない。生きる者は生きるし、死ぬものは死ぬ。罪のない子供が殺され、見殺しにされ、殺した者たちが自分こそ被害者だと言い立てるのだ。まあそういう展開になる。
状況を客観的にみれば、私が何かを書く理由はない。粛々と移住支援に取り組めばよい。ただそうした判断と同時に、もっと書こう、もっと書きたいという気持ちが高まっている。そんな必要はないのに。これはなんだろうなと考えながら、いま頭をよぎったのが中国の思想家孫子だ。
孫子は、なぜ、兵法を書いたのか。書かなくてもよかったのに。なぜ彼は書いたのか。
「孫呉の書」という。孫子(孫武)と呉子(呉起)の兵法書を並べて「孫呉の書」とか「孫呉の兵法」と呼ぶのだが、呉子がなぜ書かれたかという理由はわかる。読んでみれば一目瞭然なのだが、呉起というのはまったく深みのない退屈な話ばかりしている。本当は孫子と並べるのが失礼というぐらいレベルが低くて、だから呉起は書かなくてはならなかった。呉起は戦争というものがわかっていない。こいつはただ田舎の秀才が出世していばり散らしたいというだけの俗物根性でものを書き、同じく俗物の官僚がありがたがって読んだというだけの話だ。呉起は書く事じたいを目的として、書くことで目的を達成してしまっている。
孫子は違う。孫子は、深い。彼は戦争を考え抜いた思想家である。戦争の時間、偶発性、伸るか反るかの瞬間を真剣に考えた。だから彼が書くものは一筋縄ではいかない矛盾に満ちたものになる。
孫子は指揮権は絶対でなくてはならないと説く。指揮命令系統を軽視するものは斬首。ここまでは呉起と同じだ。しかし孫子は指揮権の重要性を力説した後に、それに反するようなことを言う。「水に常形なし」、戦闘の体勢は水のように柔軟にすべきだ、と。兵の運動を水のように流動させることだ。これは、本隊から離れ、散兵したある部隊において、指揮系統から自律して行動することがありうるということだ。「水が高きから低きに流れるように闘え」と。それはよいのだ、と孫子は言う。もう、迫力が違う。
孫子は、確実に勝てるという勝算がなければ戦争をしてはいけない、と言う。「兵は国の大事なり」。しかしそれと同時に、「兵は詭道である」とも言う。戦争とは、敵を騙し意表をつくことだ。ということは、敵に騙されて想定外の展開にもちこまれることもあるわけだ。確実に勝てる戦争などない。慎重に慎重を期しても、どこに落とし穴があらわれるかわからない。
この兵法書を忠実に読むならば、誰も戦争などできなくなってしまう。孫子は戦争に勝つための方法を書いているように見えて、実際には、戦争がいかに恐ろしく難しいものであるかを書いている。孫子がいまも読み継がれているのは、彼が誰よりも深く戦争を恐れたからだろう。彼の文章を読むと、自分がまるで戦場に立たされているような緊張感をおぼえる。孫子は、ただ命令をくだす軍師の視点からではなく、戦地にたたされる兵士の視点で、戦争を考えている。だから彼は「百戦百勝は善の善なるものにあらず」、最上の勝利は戦わずに勝つことだ、と言うのだ。
もうひとつ。
孫子13篇のなかで、あまり目立たないけれども心に残るのは、火攻篇である。この章では、火攻めを決行する条件を細かく指定したうえで、「敵の風上に火を放ち風下に向かって攻めよ」と説いている。なにをあたりまえのことを、とも思う。しかしこういうあたりまえのことを、孫子は書かなくてはならなかった。おそらく彼は目撃していたのだ。風向きを確認せず安易に火を放つバカ指揮官を。指揮官の無能のために火に包まれて死んだ若い兵士を、見たのだ。
孫子はけっして戦争を美化しない。その反対に、戦争にたいする恐怖と怒りを吐き出している。
火攻篇を書いたところで、死んだ兵士は生きかえらない。
「兵は詭道だ」と書いても、戦争はなくならない。
しかし、孫子は書いたのである。怒りがおさまらないのだ。